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江戸・大名の生活~「大迷惑な殿様芸」榊原政永

 徳川四天王榊原康政の系統である、姫路藩主榊原政岑は、吉原の高尾太夫を身請けするなど放蕩な生活を送ったため将軍吉宗の怒りを買い、榊原家は越後高田へ転封の上、政岑は隠居させられたことで知られていますが、今回はその政岑の子、政永の逸話を紹介します。

 高田藩主であった政永は、能楽にはまり、見るだけでは物足りず、自身で舞うようになっていました。

 城中の舞台で舞っていたのですが、見物人がいないと物足りなかったため、家臣に観覧させるようになります。

 しかし、何度も同じ素人芸を見せられるのもたまったものではありません。やがて家臣達は言い訳をつけて観覧しなくなり、代わりに家臣の妻子たちが観覧するようになったのです。

 もちろん、やがて家臣の家族たちも同じ状態になり、観客は減少していきます。あきらめの悪い政永は、なんと、領内の町人、農民にも観覧の許可を与えるのです。

 領民にとっては、御城の中で殿様の芸を観覧することができるという貴重な機会ということで、当初は観覧する者達も多かったそうですが、身なりを整え、姿勢を正して、長時間素人芸を見せられるのは苦痛ですよね。やはり観客は次第に減少していきます(>_<)

 すると今度は、町々村々に対し、人口や石高に応じて観覧者の差し出しが命じられたのです。もうとんでもないですね。政永が命じたのか、家臣の配慮だったのかは分かりませんが・・・・

 観覧者には藩から弁当が出され、領民たちの間には観覧代行の商売が流行るという、高田藩内はなんとも不可思議な状態に陥っていったのです。

 家臣や領民たちは大迷惑で、喜んだのは、食や金にありつくことができた無宿人たちと、下々の苦労も知らずに御満悦だった「裸の殿様政永」だけだったと・・・・

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