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関ヶ原の戦い~西軍の毛利軍はどう動いた?

 関ヶ原の戦いで西軍の総大将であったのは、石田三成ではなく豊臣政権の五大老の一人で中国地方の大大名毛利輝元でした。

 今回は、関ヶ原の戦いにおける毛利軍の動向を紹介します。

大坂城入城

 慶長5年(1600)7月、徳川家康が会津の上杉景勝討伐に出兵している隙をついて、石田三成が挙兵します。三成は大谷吉継の進言に従って、自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ中国地方の大大名毛利輝元を西軍の総大将として擁立します。そして輝元は要請に応じて、大坂城西の丸に入ります。

毛利軍の動き

 輝元は秀吉の遺言で、西国の統括者という意識が強かったといわれています。そこで、戦乱に乗じて四国や九州北部で東軍に付いた大名を攻め、西国に毛利領を拡大しようと行動を起こしました。

 九州に向けては、大友吉統と毛利吉成を後援し、それぞれ豊後国と豊前国に毛利軍を派遣しました。

 また、四国においては、蜂須賀家の領国である阿波国に毛利軍を差し向け、徳島城を占領させました。東軍方の伊予国の加藤嘉明領と藤堂高虎領では、河野旧臣ら国人を促して蜂起させています。

 そして、毛利本軍を率いた輝元養子の毛利秀元と従弟の吉川広家は伊勢に進出し、東軍方の安濃津(あのつ)城などを攻め落とします。

関ヶ原本戦の毛利軍

 輝元は大坂城に在城したまま、関ヶ原には秀元と広家が毛利軍を率いて向かったのですが・・・。

 西軍が負けると判断していた広家は東軍の黒田長政を通じて、毛利軍の本戦不参加を条件に、毛利家の所領安堵などの交渉を行っていました。

 それに対し、徳川方の本多忠勝井伊直政は毛利家の所領安堵を約束した起請文を広家と毛利家家老の福原広俊に提出しています。

 毛利軍は関ヶ原に到着すると、家康本陣の背後に位置する南宮山に布陣します。

 しかし、毛利軍の先鋒は東軍と内通していた広家でした。広家は西軍方からの出陣要請の使者にいろいろ言い訳をして、出陣を拒否し動かなかったため、後続の毛利軍は戦場に足止めされてしまいます。

 そして、その間に小早川秀秋ら西軍の諸将が次々に東軍に寝返ったため、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わります。

 結局、関ヶ原の戦いは、広家と秀秋の裏切りで西軍が敗北することになったのです。

 そして、南宮山に布陣していた毛利軍は東軍と一戦も交えずに大坂に向けて撤退しました。

大坂城退去

 関ヶ原本戦で西軍は敗退しましたが、毛利軍は無傷のまま温存されており、輝元は豊臣秀頼を擁して、大坂城で籠城して戦うことも可能な状況でした。

 そのため、これを恐れた家康は輝元に対して、所領安堵の起請文を送り大坂城からの退去を促します。そして、所領安堵を信じた輝元は大坂城西の丸から退去したのです。

関ヶ原の戦い後の毛利家

 しかし、輝元と入れ替わる形で大坂城西の丸に入った家康は、輝元が西軍の総大将として積極的に動いていた証拠の書状を次々と発見します。

 家康はこれを理由に毛利家の所領をすべて没収することを決め、あらためて広家に周防・長門の2か国を与え、毛利家の家督を継がせようとします。

 この事態に広家は驚愕し、自分がもらう2か国を輝元に与えてくれるよう家康に懇願し、これが認められたため、毛利家は何とか改易を免れました。

 広家の内通のため、東軍に敗れた毛利家でしたが、その広家のおかげ?で江戸時代を通じて長州藩主として存続することができたのです。

詳しくは【関ヶ原の戦い後の毛利秀元と吉川広家】を参照⇓⇓

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