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島原・天草の乱に関する雑学

 島原・天草の乱(島原の乱、島原・天草一揆)に関する雑学を紹介します。

乱の原因

 「切支丹弾圧」・・・だけが原因ではありません。そもそも江戸幕府による切支丹禁制は慶長17年(1612)年に出されており、乱が起こった寛永14年(1637)は既に25年経過しています。

 また、天草を治めていた切支丹大名小西行長の改易は関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600)で、島原を治めていた同じく切支丹大名の有馬家が転封となったのは慶長19年(1614)ですので、切支丹禁制に反抗しての宗教一揆ならば、禁制が出されたり、切支丹大名の転出により禁制が実質化されたタイミングだったと思われます。

 直接的には、切支丹大名後の島原の領主松倉家と天草の領主寺沢家による圧政が大きな原因といわれています。到底納めきれない重税を課した上で、過酷な取り立て、残忍な罰を加えて住民生活を窮地に陥れたのです。

 先の見えない絶望的な日々の中でキリスト教の信仰にすがり、天国への道を信じて民は蜂起したのですが、一揆を主導したのは有馬家と小西家の旧臣で帰農していた者達でしたので、武士による反乱の一面ももっています。

 結局複合的な原因により空前の規模の一揆に膨れ上がったのでした。

百姓が一致団結して立ち上がった?

 全ての百姓が団結して立ち上がったわけではなく、仏教徒など切支丹ではない人は消極的であったといわれ、一揆側は、軍勢を集めるため消極的な人に一揆への加担を強制したり、仏教寺院を襲ったりしたといわれます。

 中には村ごと藩側に付くところもありました。それぞれの村、百姓達が生き残りのために一揆に加わるか、藩側について一揆と対抗するかを選択したようです。

明智光秀の孫が討死

 天草にある富岡城の城代で、一揆軍との天草本渡の戦いで討死した寺沢家家臣の三宅藤兵衛は、明智光秀の従兄弟といわれる明智秀満の子で、母は明智光秀の娘とも伝わります。

明智光秀の孫三宅藤兵衛と島原・天草の乱
三宅藤兵衛重利は明智光秀の従兄弟といわれる明智秀満の子で母は明智光秀の娘とも伝わります。寺沢家に仕え天草の富岡城代を務めていましたが・・・

宮本武蔵も参戦

 養子の伊織が家老を務めていた小笠原家の一員として戦に加わったものの、城方の投石で足を負傷したといわれています。矢弾に限りがある籠城戦において投石は有効な攻撃手段の一つでした。

天草四郎は豊臣秀頼の落胤豊臣秀綱?

 一揆の首謀者達は天草四郎のことを、秀頼の落胤で本名は豊臣秀綱であると言いふらしたといわれています。

 もちろん事実ではありませんが、当時から秀頼が大阪城を脱出し加藤家や島津家を頼って九州に落ち延びたとの風説があったため、それを利用して人心を繋ぎ留めたり豊臣旧臣を集めたりしようとしたようです。

 付近には豊臣恩顧の加藤家、小西家旧臣の浪人も多く、全国には改易された豊臣系大名の浪人が溢れていた時代でした。

天草四郎は表に出なかった?

 原城籠城中、天草四郎は一揆勢の前に姿を見せなかったといわれています。四郎は首謀者達に担ぎ出されたものの、まだ若く自身では事の重大さに困惑していたでしょうから、民と接すると普通の一少年ということがバレてしまうおそれがあったので、四郎を神格化したままにするために首謀者達が隠していたのでしょうね。

一揆勢は皆殺し?

 原城に立て籠もった3万7000人の一揆勢は、内通者であった絵師の山田右衛門作一人を除いて皆殺しにあったといわれていますが、幕府側は、切支丹ではなく一揆に加わった者達への投降を促す矢文を入れ、籠城中に城から脱出した者達も多くいたようです。

 実際には1万人近くが落城前に脱出していたといわれていますが、総攻撃時に残っていた者達は有無をいわさず撫で斬りにされ皆殺しに遭ったことは間違いないでしょう。

天草四郎の埋蔵金?

 天草の一揆軍が海を渡って島原の原城に籠城する際、万一の再起に備え、天草に軍資金を埋めていったとの伝説があります。

 軍資金といっても貧しい百姓達のものですから切支丹関係の宝物だったようで、天草での主戦場となった本渡と富岡城の間の池に埋められたといわれ、池の跡地で発掘調査も行われたそうですが、結局埋蔵金等は見つかっていません。