一般には武田勝頼は偉大な父信玄が残した武田家を滅亡させた人物として、あまり評価が高くありません。
信玄以来の重臣の意見を退けて、信長に戦いを挑んだすえに敗れ、結局武田家を滅ぼしたといわれてきました。
しかし、果たして勝頼の武将としての能力が原因で武田家は滅んだのでしょうか。
勝頼は信玄の跡継ぎ?
もともと信玄には義信という正室から生まれた嫡男がいましたが、義信は信玄への謀反の疑いで廃嫡され、自害に追い込まれています。
次男の信親は盲目で三男の信之は早くに亡くなっていたため、四男である勝頼が後継者になりました。
しかし、後継者になるまでは、諏訪勝頼を名乗っており、武田家の通字「信」も与えられていません。数多くいた武田一門の一人に過ぎませんでした。
もしかしたら義信生存時は、母が信玄の姉で正室が信玄の娘だった穴山信君(梅雪)の方が一門としての格が上だったのではないでしょうか?
その上『甲陽軍艦』によると、信玄の遺言で、正式な後継者は勝頼の嫡男信勝であって、勝頼は信勝が成人するまでの陣代(後見)とされたとか、、、これではまともに家臣を統率できるはずがありません。
勝頼と長篠の戦い
天正3年(1575)、長篠の戦いで勝頼は織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、勢力を後退させることになります。
一般には大量の鉄砲を使用した織田軍が武田騎馬軍団に勝利したといわれています。では、装備兵器の違いだけで、国力はあまり変わらなかったのでしょうか。
当時の武田家と織田家の石高を比較してみます。武田家は信玄死去時(1573年)で120万石でしたが、勝頼の代になり東美濃の明知城や遠江の高天神城などを落とし、10万石増えて130万石となっていました。信玄時代より領土が増えていますが、それでも130万石です。
対する織田家は、信玄死去時は330万石で、2年間で70万石増え400万石もの領国に拡大していました。
その上、これに徳川家が加わります。2年間でさらに国力差が開いたことになります。
最大動員兵力は、武田家の3万9千に対し、織田家は12万です(100石3人で計算)。当然、決戦を行っても勝てるはずがなく、長篠の戦いで大敗します。
通説では長篠の戦いの両者の兵力は、織田・徳川連合軍3万8千に対し、武田軍は1万5千といわれています。
兵力が真逆なら、鉄砲が勝敗を左右したといわれてもおかしくありませんが、この3倍近くの兵力差で野戦を行って、勝てるはずがありません。それも信長と家康相手にです。
それに運良く武田軍が決戦に勝利したとしても、武田軍の被害はかなり甚大なはずです。続けて追い打ちが出来る兵力は残っていないでしょう。
それに対し、織田軍は後方に強大な兵力を温存しているため、すぐに兵をまとめて反撃に転じることが可能です。そうなれば、武田軍は撤退しなければならない状況に追い込まれます。
そのような最悪な状況下でも、勝頼は信長に決戦を挑まなければならない理由がありました。
それは、時間が経てば経つほど信長との力関係がどんどん開くからです。信玄死去時でも3倍近くの差があり、その後の信長の勢力拡大をみながら、勝頼は焦っていたのでないでしょうか。
私個人的には、信玄でも信長に勝つことは不可能だったと思っています。しかし、信玄時代に信長と断交していた勝頼に和睦という選択肢はなく、少しでも早い時期に信長と決戦しなければなりませんでした。そして当然敗れます。
せめて、信玄時代に徳川を滅亡寸前ぐらいに追い込んでいれば、選択肢も増えたでしょうが、、、
長篠の戦い後の勝頼~滅亡までの7年
しかし、敗れたとはいえ、武田家は依然として東国の大大名の一人であることには変わりはなく、ましてや、徳川家が単独で合戦を挑むには強大な相手でした。
一般には、長篠の戦い後の武田家はだんだん勢力を削られ、結局織田軍の侵攻により滅亡したイメージですが、実際は違いました。
たしかに東美濃や遠江方面では、城を落とされていますが、上野方面(北条家との争い)では勢力を拡大させているのです。
元亀2年(1571)から武田家と北条家は同盟を結んでおり、長篠の戦い後には北条氏政の妹を勝頼の正室に迎えていました。しかし、上杉謙信死後に起きた御館の乱(上杉景勝と氏政の弟上杉景虎の後継者争い)で最終的に景勝側についたため、北条と断交状態になっていました。
天正7年(1579)8月には、上野の厩橋城主北条高広が北条から武田に寝返っています。また、翌年5月には武田家重臣の真田昌幸が上野沼田城を落としています。
駿河方面では、北条家と徳川家の両者を相手にしなければならなかったため、劣勢だったのですが、上野では武田家優位の状況でした。
勝頼の攻勢を恐れた北条氏政は、弟の氏邦に宛てた書状に、
「このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡する。」
と書いています。
さすがに滅亡は少し大袈裟だと思いますが、氏政がかなりの危機感を募っていたことは間違いありません。そして、武田、上杉、佐竹、里見と四方を敵に囲まれて劣勢になった氏政は、なんと、、、信長に臣従を申し出ているのです。氏政のこの行動は、それだけ勝頼の存在を恐れていたのだと思います。
先述しましたが、長篠の戦いは避けられない戦争だったと考えています。そして、敗戦後も領国を立て直し北条・徳川相手に一歩も退かず、逆に勝っていた勝頼は非常に有能だったと思います。
しかし、どんなに優れていようが、当時の信長に勝つことは不可能でした。父信玄が信長と敵対した時点で、武田家は滅ぶ運命にあったのでないでしょうか。
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