PR

田中光顕と坂本龍馬~明治での回顧

 田中光顕は土佐出身の志士で、明治維新後は元老院議官、宮内大臣等を歴任し昭和14年(1939)95歳で死去していますが、明治の世で忘れ去れていた坂本龍馬を世に知らしめた人物としても知られています。

 明治38年(1905)、日露戦争でのバルチック艦隊との決戦を控えた時期、光顕は宮内大臣でした。光顕の著書「維新風雲回顧録」によると、

 ある日、昭憲皇太后(明治天皇皇后)から、

枕元に坂本龍馬が立ち「この度の海戦は必ず皇国の海軍が勝利するのでご案じなさいますな」と言われた

との言葉があったそうです。不思議に思った光顕が龍馬の写真を準備して見せると、龍馬の顔など知るはずもなかった皇太后が驚きながら「おお、これは坂本龍馬の写真である」と言われたので光顕も驚いたといいます。

 龍馬のことは明治の世で人々の記憶から遠ざかり功績も埋もれていましたが、このことで龍馬の名が再び世に出るようになったそうです。

 ちなみに光顕は龍馬が斬られた直後に現場に駆けつけています。当時のことについて、

土佐藩邸で陸援隊の者たちと一緒にいたところ、菊屋峯吉が駆け込んできて「只今、坂本さんと中岡さんがやられました」と報告してきたので、途中薩摩藩邸にも知らせながら現場に到着した。二階に上がったところで下男藤助が倒れており、部屋では坂本が眉間を二太刀深くやられて脳漿が露出し既にこと切れていた。中岡は気は確かであったが重傷で、後ろから頭を切りつけられ手足もひどくやられていた。「どうしましたか」と聞くと「突然二人の男が駆け上がってきて切りつけてきたので思わぬ不覚をとった。僕は短刀で受けたが遅かった。坂本は左手で刀を取り鞘のまま受けたが頭をやられた。坂本は僕に向かって、もう頭をやられたからいかんと言うた」と喘ぎながら答えた。
と述懐しています。なお光顕は犯人について、
 当初は新選組だと思ったがそうではない。後に今井信郎という男が自分が斬ったと言ったがこれも怪しい。小太刀の名人であった早川桂之助(桂早之助の誤り?)、渡辺太郎とも言われている。
と述べています。