長篠城籠城戦
天正3年(1575)、武田勝頼の大軍が徳川方の奥平貞昌(信昌)が立て籠る長篠城を包囲しました。奥平家は元々今川家に属していましたが、桶狭間の戦い後、徳川家に仕えました。
その後、武田軍の奥三河進攻時に武田側に降りましたが、信玄死後に徳川に帰参していたのです。その際、織田信長の命で家康の長女亀姫が奥平貞昌に嫁いでおり、いかに長篠城と奥平家が重要視されていたのかがうかがわれます。
武田軍15000人に対し、長篠城の兵はわずか500人。城兵の死傷も多く、二の丸三の丸も落とされ兵糧も乏しい状況であり長篠城の命運は風前の灯火でしたが、城主奥平貞昌のもと、必死に持ちこたえていました。
貞昌は家康に援軍を求めていましたが、なかなか到着せず、玉砕前に今一度包囲を突破して援軍を催促しにいこうと評定で話になります。しかし、城を脱出した間に落城したのでは逃げ出したと思われるとして皆行きたがりません。
諸士黙りこくってしまったところ、末席に座る身分の低い鳥居強右衛門(すねえもん)勝商(かつあき)が自ら名乗り出てその役目をかってでたといわれます。
鳥居強右衛門の壮絶な最後
貞昌は
「そちがもし敵に捕らえられて殺されても、子を取り立てる」
と申し渡したそうですが、強右衛門は
「一子亀千代は6歳になり母の元へ置いているので心配はいりませぬ。私は殿の御恩に報いるため、そして仲間を助けたいために命をかけるのみです」
と答え、他の城中の者達にも隠れて密かに城を抜け出ます。
強右衛門は岸壁を降り、川を潜って無事に囲みを抜け出すことに成功し、向かいの山から脱出成功の合図の狼煙を上げたのです。
岡崎城の家康のもとに着いた強右衛門は、信長・家康連合軍が援軍に来ることを確認します。家康からは援軍の道案内をして一緒に行くように言われますが、援軍のことを一刻も早く籠城兵に伝えたいと、一人で急いで長篠城を目指しました。
しかし城の近くに戻ってくるも、囲みが厳重でどうやって城中に入ろうかとまどっていたところを見回りをしていた穴山梅雪の部下に捕らえられ、勝頼の前に引き立てられたのです。
勝頼は強右衛門をすぐに殺さず、
「武士として奥平家への忠義を守るのは立派だが、敵味方は時による。子孫のことを考えて武田家に仕えよ。援軍は来ないと城兵に伝えれば命を助け、奥平家から得ていた禄の十倍で召し抱える」
と持ち掛けました。
強右衛門は「それは容易いこと。承知しました」と大いに喜び従ったため、城の前まで連れていかれました。
ところがそこで強右衛門は城兵に対し、
「織田徳川の大軍が岡崎まで到着している。ここまで3日のうちにはやってくるだろう!諸君それまで持ちこたえよ!!」
と叫んだのでした。
慌てて武田兵から引きずられて、殴られたり蹴られたりしながら武田本陣に引き立てられたそうですが、強右衛門は
「城中には主君や義を結んだ朋友らがいるのに、命を惜しんで虚言をいうことがあろうか。はじめ穴山の手の者に見つかったときに立ち向かって討死することは容易かったが、それでは使命を果たせないので従ったふりをしたまでじゃ!!」
と言い放ちます。
武田方も、馬場、内藤、山県らの老臣は、強右衛門の命を懸けた忠義を称えて
「彼一人殺したとて戦の勝敗に何の関係があろうか」
と助命を申し出ましたが、血気盛んな若武者たちはすぐに厳刑に処すべきと意見し、結局若い勝頼も強右衛門を許さず、磔(もっと過酷な逆さ磔とも)にかけ、城兵の前で壮絶な死を迎えたのでした。
一方長篠城の兵達は強右衛門の言葉に大いに士気を上げ、援軍が到着するまで持ちこたえます。
その後の長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗し、弱体化の一途を辿っていくのです。
鳥居強右衛門の子孫はどうなった?
信長、家康共に長篠城の善戦を大いに称え、貞昌は信長から名の一字を与えられて信昌と名を変え、強右衛門の子信商はこの時の父の功績によって奥平家に重用されることになります。
鳥居信商は、関ヶ原の戦いの後に京都に潜んでいた安国寺恵瓊を捕縛する大功を立てています。
その後、家康の養子となった信昌の子である松平忠明(家康の外孫)が新たに分家した奥平松平家に強右衛門の子孫は移り、功績を重ねて家老を輩出する重臣の家柄となって、忍藩家老として明治維新を迎えることになります。
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