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畠山政長と「薬研藤四郎」~腹が切れない!?

 明応2年(1493)、元管領の畠山政長(尾州家)が室町幕府10代将軍足利義材と共に高屋城に籠る畠山義豊(総州家)を攻めます。

 しかし、政長の増長を警戒した細川政元が、義豊に加担し京都で謀反(明応の政変)を起こすと、政長らの味方であったはずの幕府軍4万の軍勢が敵方にまわり、政長らが籠る正覚寺城(現大阪府)に攻め寄せて逆に取り囲まれてしまったのです。

 政長は、「もはやこれまで」と、自害しようと所持していた吉光の短刀を抜き、諸肌を脱いで刃を腹に突き立てようとしますが、なぜか刺さらず切れません。

 3度やっても切れないので、怒ってその短刀を投げつけたところ、傍らにあった薬研(薬材を挽いて薬を作る鉄の道具)に当たってこれを貫いたのです。

 政長はそれを見て、

「さすがに累代の宝刀。主人を殺すのは忍びないのだろう」

と嘆じたと。

 そこで、共に居た重臣の丹下備後守が、自身の信国の短刀を抜いて自分の股を試しに刺してみて、

「殿、この刀は切れ味がよろしゅうござる」

と言って政長に渡したところ、政長はその短刀で潔く腹を切ったといわれます。

 なんとなく、腹を切るのをためらっていたのを家臣から促されやむなく自刃したような気がしないでもないですが・・・・ついコントのような場面を想像してしまいます(*_*;・・・とにかく、管領家に伝わるものであり名刀であったのには間違いないでしょう。

 この薬研を貫いたという藤四郎吉光作の短刀は、その後「薬研藤四郎」とよばれ、松永弾正の秘蔵となっていましたが、織田信長に献じられた後本能寺の変で焼失してしまったといわれています(-_-)

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