神保長三郎相茂は関ヶ原の戦いでの岐阜城攻略などで功を挙げ大和国に7000石を有していた武将で、大坂夏の陣では徳川方として約300人の家臣とともに水野勝成隊に属していました。
連日の戦いで神保隊は奮戦し、5月6日大坂方の明石全登隊と水野隊が激戦を繰り広げた際、神保隊も必死に戦いますが突如悲劇が襲います。
後方に備えていた味方であるはずの伊達政宗隊が神保隊300人に対して鉄砲での一斉射撃を加えたのです。
敵の明石隊と入り乱れての激戦の中、明石隊が崩れてなだれ込むのを恐れた伊達勢が明石隊もろとも葬ったといわれますが、相茂をはじめ騎馬の士32人、歩兵293人が死亡し、300人以上いた神保隊はわずか数人を残して全滅してしまったといわれます(′д` )…彡…彡
戦後、神保隊の生き残りが水野家を通じて訴え出るも、政宗は
「神保隊が崩れかかってきたので共崩れを防ぐため撃ったまで」
と強弁し、わずか数名の生き残りしかいない神保家の訴えは抹殺され伊達家はお咎めなしとなります。
(伊達軍の前方で敵を撃破し休憩中の神保隊を、味方と知りながら良い陣場を得るためあえて攻撃を加え、戦後には「無論味方と分かっていたが、我が軍の軍法では前方に居るものは敵味方の区別はつけない。崩れてきたら総崩れになるではないか」と強弁したとも)
政宗は若いころ、敵に捕らわれて連れ去れてようとした父輝宗を、やむを得ずに敵もろとも一斉射撃を加えて殺害しており、父を撃つことに比べれば何でもない判断だったでしょう。
薩摩島津家の記録によれば、神保隊は7人しか生き残らず、政宗は卑怯者と噂され諸大名の笑い者になったとされます。
戦場の混乱の中で同士討ちはよくあることといわれ、伊達勢にとっても味方を守るためのやむを得ない決断だったかもしれませんが、なんともやりきれない悲劇です。
なお、相茂の子茂明が幼少のため参陣しておらずに生き残っており、7000石の大身の旗本として改めて取り立てられ神保家を復活させていることが、この惨劇の救いですね・・・
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