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西南戦争~薩軍に抗した士族義勇軍「臼杵隊」とは?

 西南戦争では、薩摩に限らず九州の多くの士族が薩軍に身を投じましたが、中には中立的立場で傍観するのではなく、義勇軍として政府側に付いた士族もいました。

 今回はその中で、約800名もの士族が義勇軍として志願し、政府軍と共に薩軍と壮絶な戦いを繰り広げた大分県の「臼杵隊」について紹介します。

薩軍の大分侵攻

 明治10年2月に薩摩を出発した薩軍は、まず九州西部を北上して熊本に侵攻し、政府軍が立て籠もる熊本城攻城に失敗、南下してくる政府軍を迎え撃った、高瀬、田原坂での激戦に敗北、更に熊本平野での城東会戦にも敗北します。
 その後体制を立て直すため鹿児島に隣接する人吉に南下するのですが、人吉で持ちこたえる間に戦況を挽回するため、政府軍の手薄な九州東部を侵攻する作戦を立てたのです。
 これは、宮崎から大分へ侵攻して船で四国へ渡って土佐などの不平士族と合流し、更には畿内進出を窺うという壮大な形勢挽回作戦でした。
 4月末、西郷直々の命を受けた野村忍介率いる奇兵隊を中心とした約三千人が延岡・大分方面へ出発します。そして難なく進撃を続けた薩軍部隊は、5月13日には豊後竹田を占領したのです。
 薩軍の電撃的な侵攻により竹田が陥落したことで、政府軍も急遽増援を派遣しますが、相次ぐ敗戦や物資欠乏により薩軍の軍紀も乱れ、占領地では士族の強制徴兵や物資の強奪が行なわれており、豊後一帯は大混乱に陥ります。

臼杵隊の結成

 大分県内の各士族も、薩軍に自ら参加する者、強制的に参加させられる者、騒乱を避け避難する者など対応が分かれますが、豊後水道に面した交通の要衝であった臼杵も一気に緊張に包まれ、5月20日、急遽旧臼杵藩士が集まって対応を協議します。
 そして議論の結果、忠君保民の大義のもと政府軍に味方し郷土を防衛すると一同で決し、その旨と応援の派遣依頼の使者を大分県庁に急ぎ送りました。
 急遽組織された臼杵隊は元臼杵藩家老の稲葉頼(たのも)を総指揮とし、志願者を募ったところ17歳以上の士族約800名が参加しました。旧臼杵藩5万石の規模からすると、戦えるほとんどの士族が参加したのではないかと思います。
 しかし、臼杵藩は維新前に仏式軍制を導入していたものの、集まった銃器は旧式の先込銃約200挺しかありませんでした。ほとんどの隊士が刀、槍のみで歴戦の猛者である薩軍に対抗することとなったのです。

迫る薩軍と警視隊との合流

 5月25日、薩軍が臼杵の南方に位置する佐伯を占領したとの報が届きます。
 薩軍の動向に気をもみながら防備を固める臼杵隊に、30日になってようやく応援が到着しますが、大分県庁から急ぎ派遣されたのは、東京から来た士族で編成する警視隊約100名のみでした。
 臼杵隊と合わせても約900名で約3000名の薩軍と戦うことになるのです。

臼杵での激戦

 6月1日早朝、偵察兵から薩軍の大部隊が進軍してきたとの報が入ります。
 臼杵隊と警視隊はそれぞれ配置に付きながら町民の避難を進めましたが、歴戦の薩軍はすぐに高台を占領し、先鋒に配置していた警視隊に攻撃を開始しました。
 薩軍の猛烈な攻撃を受け警視隊は500メートルほど押し込まれ、臼杵隊も銃部隊を出して応戦するも薩軍の勢いを止められません。
 臼杵隊も刀槍の部隊まで繰り出して白兵戦に挑み、各地で総力戦となりました。
 兵力・火力共に劣る臼杵隊と警視隊は白兵戦で奮戦するも、薩軍の圧倒的戦力により次々と倒され、押し込まれていき、午後には各部隊が臼杵城に引き上げ籠城することに決したのです。
 臼杵城(丹生島城)は三方を海に囲まれ、戦国時代には大友宗麟が島津軍の猛攻を防いだ名城ですが、廃藩後主な建物は撤去された状態でした。
 市中を占領した薩軍は城の大手口から攻め立てるとともに、城への砲撃を続けました。
 元々銃器も不足し、弾薬も尽きてしまった臼杵隊は支えきれなくなり、総指揮の稲葉頼は総撤退を命令、隊士達は大分に落ち延びるのを目指して、船で脱出したり、薩軍の包囲を突破するなど、それぞれ城を脱出し、臼杵城は薩軍の手に落ちたのでした。
 日本最後の攻城戦は西南戦争の熊本城の戦いであるとされていますが、臼杵城を巡る戦いも行われていたのです。
 この日の戦いで、臼杵隊は43名、警視隊は20名が戦死、薩軍も63名が戦死しました。この数は戦いの壮絶さ、臼杵隊の奮戦を物語っているのではないでしょうか。

臼杵の奪還

 翌2日、政府軍はまず軍艦を臼杵に寄こして反撃を開始します。軍艦浅間が臼杵の薩軍目掛けて艦砲射撃を行い、4日には応援の軍艦日進も到着しました。更に陸の方でも応援部隊が竹田を奪い返しており、一帯で戦闘が続きます。
 そして、8日早朝、政府軍は三方向から臼杵奪還作戦を開始し、大分に落ち延びていた臼杵隊士は、各部隊の先導案内役を務めました。
 海上から艦砲射撃も加えますが、さすがに薩軍もよく戦い、その日は決着が付かず日没を迎えました。
 翌9日も早朝から戦闘が続きますが、薩軍は抜刀攻撃を繰り出し政府軍にも被害が続出します。
 そしてついに10日、政府軍の一部隊が薩軍の背後を急襲し、薩軍は敗走を始めたのです。逃走する薩軍が町に火を放ったため、330軒余りが焼失してしまったとされますが、臼杵城の陥落から10日ぶりに臼杵を奪還したのです。
 この戦いで豊後方面における形勢は逆転し、薩軍は撤退をはじめます。その後も薩軍は撤退戦を繰り広げながら、8月の宮崎での決戦にも敗北、可愛岳(えのだけ)突破による鹿児島入り、城山最終戦へと移って行ったのでした。

戦いの後

 もし臼杵士族が立ち上がらなかった場合、薩軍は戦闘力を温存したまま大分まで迅速に制圧、その後四国の不平士族と結びつき、戦争の戦火が更に広がって終結が遅れた可能性もあります。多くの犠牲を払いながらも、臼杵隊の活躍は無駄ではありませんでした。
 戦死した臼杵隊士は、正規軍でなかったものの遺族には弔慰金が下賜され、靖国神社へ合祀されました。
 また生存した隊士たちにも褒賞が与えられ、後に臼杵城跡には勤皇臼杵隊之碑が建てられています。
【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
臼杵隊(中根貞彦編:三豊社)
西南戦争血涙史(北村清士著)
歴史群像シリーズ「西南戦争」(学研)
https://youtu.be/Ke6cmhnGDGk