『今昔物語』から、平安中期にあったとされる仇討ち事件を一つ紹介します。
平維茂は、平将門を討ったことで有名な平貞盛の甥平兼忠の子で、貞盛の養子となって東国で活躍した武将です。
貞盛は多くの養子を取っており、子としては維茂は15番目だったことから、余五(十を超えた余りの五)君、また後に将軍となったと伝えられることから「余五将軍」と呼ばれました。
父兼忠は長く都で藤原氏に仕えていましたが、或る時上総介に任ぜられて関東に下ることになりました。
ところで、この兼忠の側近くに仕えた若侍がいましたが、幼少の頃に父を殺されており、密かに仇を探し求めていたのです。
噂によれば父を殺した仇は維茂に仕えているとのことであったので、兼忠に従って関東に下向することになると、仇を討てるかもしれないと密かに期待していたのでした。
兼忠が領地に到着すると、しばらくして息子の維茂が大勢の郎党を引き連れて訪ねてきました。
季節は秋でその日は風も冷たく、老体の兼忠は居間の前に御簾を垂れ、その中に引き籠って例の若侍に腰を揉ませていました。
維茂は広敷に坐って父に挨拶を述べ、つき従って来た郎党の中で主だった者四、五人が前の庭に居並んでいました。
その中で一番上手に控えている年の頃五十ばかりの武士は、背が高く筋骨隆々として眼光も鋭く、老練の勇士であると思われました。
兼忠は腰を揉ませていた若侍に対し「あの男を知っているか」と尋ね、若侍は「存じませぬ」と答えます。
すると兼忠は「汝の父は汝が幼い頃に下馬の礼を巡ってあの太郎介に射殺された」と教えたのです。
若侍は驚き涙を流しますが、兼忠の腰を揉み終えるとその場から退いていきました。
その晩宿舎で、太郎介は特に維茂から許されて、配下の五、六人を相手に酒盛りをし、やがて高枕で寝てしまいました。
闇夜でしたが、庭には至る所に松明が盛んに焚かれていたので昼のような明るさでした。
その上、一同の宿舎の周りには二重にわたって幕が張られ、武装した郎党が警戒に当たっており、全く隙の無い状態だったのです。
かの若侍はというと、兼忠の前から退くと台所の片隅に潜んで刀を念入りに研ぎ、太郎介が酒盛りをしている間に給仕の者に混じって入り込み、幕の後ろに身を隠していたのでした。
そして太郎介が酔って一人で寝入ったところに俄に現れてその寝首を掻き、幸いにも他の者に気付かれることなくそのまま逃げだすことができたす。
翌朝になって太郎介の遺骸が発見され、他の郎党達は驚いて維茂に報告します。維茂方で調べた結果、父に仕える若侍の仕業らしいことが判ったので、早速兼忠に面会して仔細を語り、
「股肱の臣を、寝所まで忍び込まれ討たれたとあってはわが武名に傷が付きます。何卒かの若侍を捕えて私に引き渡してください」
と頼んだのです。しかし兼忠は、
「いや。かの若侍をここに呼び出すのは易い事だが、そなたはそれをどうするつもりじゃ。おそらく殺そうというのじゃろう。
それならば尋ねるが、もし仮にこの父が人に殺された場合、そなたは父の仇を討たぬ考えか。
そもそも父祖の仇を討つことは武門の誉れであり、天道もこれを許している。父の仇を討った者を罰しようとするようでは、そなたには親の仇討ちなど出来そうに思えぬ」
と厳しく諫めたのです。
維茂は勇猛であるだけでなく非常に孝心に厚い人であったから、父の言葉に従いその過ちを謝して、そのまま任地に帰って行ったのでした。
父の仇を討った若侍は、それから三日ばかり経って黒の喪服を着けて出仕し、兼忠の前におそるおそる平伏しました。
兼忠をはじめ居並ぶ人々は、その心根を察して共に涙を流し、本懐を達したことを喜び合ったのでした。
そうして若侍は引き続き兼忠に仕え、目を掛けられていましたが間もなく病のため早世してしまいました。兼忠はいたくその死を惜しんだといいます。
この若侍が厳重な警戒の中で本懐を遂げたことは天の御加護によるものであると今昔物語では評しています。




新着記事