幕末の激動期、明治維新へと向かう大きなうねりの中で数多の事件が起きましたが、今回は、慶応2年(1866)4月、長州奇兵隊脱走兵約百名が突如備中国(現岡山県)にある幕府代官所等を襲撃した「倉敷浅尾騒動」について紹介します。
長州藩の情勢
まず当時の長州藩を取り巻く情勢ですが、
【文久3年(1863)】
5月 下関砲撃事件
6月 奇兵隊結成
8月18日 八月十八日の政変
【元治元年(1864)】
7月19日 禁門の変
7月23日 長州追討の勅命
11月11日 正義派三家老(福原・益田・国司)の切腹
12月15日 高杉晋作の功山寺挙兵
12月19日 正義派幹部処刑
12月25日 正義派家老清水親知切腹
12月27日 征長軍解兵令
【元治2年(慶応元年)(1865)】
1月5日 絵堂の戦い(藩内開戦)
2月 正義派による藩政掌握
3月 長州諸隊が正式に藩に所属
4月 幕府による長州征討進発令
9月 長州再征討勅許
11月 幕府と長州藩の交渉開始
【慶応2年(1866)】
3月 幕府から長州藩主父子らの出頭命令
4月 倉敷・浅尾騒動
6月7日 第二次長州征討開戦
6月18日 長州藩による浜田城攻略
7月20日 将軍家茂死去
8月1日 小倉藩が小倉城に火を放ち撤退
9月2日 長州征討停戦合意
といった激動の中での事件でした。
首謀者立石孫一郎
騒動の首謀者となったのは、長州藩の第二奇兵隊幹部であった立石孫一郎(本名:大橋敬之助)です。
もともと立石は播磨の庄屋の家に生まれ、後に親戚で倉敷の豪商であった大橋家の養子となり、町年寄を務めるなど地元の名士として知られていました。しかし、正義感の強さから米の買占めを行った豪商と対立しそれを糾弾したものの、新しく代った倉敷代官桜井久之介に退けられてしまい、やがて倉敷を出ることとなりました。
その後立石は、大阪、讃岐、備前と居を移しながら志士と交流し尊王攘夷思想を強めていきます。
そうした活動を経て新撰組にも目を付けられるようになった立石は、居場所を求め、先祖の立石孫一郎が毛利家から受けた感状を手にその名を襲名し、長州第二奇兵隊(南奇兵隊)に入隊したのです。
持ち前の能力か、入隊後まもなく隊の幹部に抜擢された立石でしたが、当時の長州藩内は幕府との戦いを控えながら派閥抗争に明け暮れる混乱の極みにありました。そうした現状へのもどかしさ、さらに過激な討幕運動への傾倒から、立石は不満を募らせていきます。
そして藩に期待せず、藩内外の倒幕派志士と結託し決起しようと計画を練っていったのです。
奇兵隊からの脱走
そのような中、慶応2年(1866)4月4日(5日)、隊内部の揉め事で楢崎剛十郎という幹部が斬られる事件が起こり、その混乱を機に、立石は同志約百名とともに第二奇兵隊を脱走し決起したのです。
立石らの計画は、備中に入って立石の故郷である倉敷を襲い軍資金を手に入れ、更に幕府老中板倉勝静の居城備中松山城を奪い根拠として、長州藩の応援を得て東上しようとするものでした。
脱走した立石率いる約百名は、瀬戸内海を船で東へ向かいます。
隊士らの脱走を受け、第二次長州征討戦を控え余計な摩擦を避けたかった長州藩庁は、広島藩をはじめ各方面へ脱走兵の逃亡に関する通知を送り、藩の軍事行動ではないと一線を引きました。
そうして浮いた集団となってしまった立石らですが、途中の脱落者や近隣諸国の志士の加入も経て、当初の計画通り倉敷へ向かったのでした。
倉敷代官所襲撃
目標となった倉敷代官所は幕府直轄領を管理していた役所で、立石らの主目的は代官・桜井久之介の誅殺でした。
4月10日未明、代官所に押し寄せた一味は門番を呼び起こし斬り倒します。更に「盗賊、盗賊」と叫びながら知らせに走ろうとした門番の女房をも斬り倒すと、門の錠を打ち砕いて開き、鬨の声を上げて乱入したのです。
代官桜井久之介は長州征討軍に加わって広島に居り不在で、手薄な代官所は寝込みを襲って来た多勢の武装集団に対抗できるはずもなく、激しい火の手と銃声に包まれ、代官所は焼き払われてしまいました。
未明に始まった襲撃は午前6時には終わり、代官所側は死傷者10人を出し陥落したのです。
立石らは代官所の牢を開いて囚人を解放し、極度の混乱と恐怖に陥った倉敷の町を回ると、商人らに軍資金を供出させました。
しかし目標だった代官を討ち漏らした襲撃隊は、収まりのつかない憤りを抱えたまま、次なる標的へと向かったのです。
浅尾藩陣屋の襲撃
倉敷で更に同志約五十人を加え百数十人となった立石ら襲撃隊は、倉敷から北へ向かい、備中浅尾藩陣屋(現・岡山県総社市)から1.5㎞ほど離れた宝福寺に陣を置きます。
そもそもなぜ浅尾藩が狙われたのかというと、浅尾藩主の蒔田(まいた)広孝は、京都見廻役として尊王攘夷派の志士たちを厳しく取り締まる立場にあり、禁門の変では長州藩撃退に活躍するなど、長州過激派にとってはまさに「仇敵」といえる存在だったからです。
突如現れた武装集団に対応を迫られる浅尾藩でしたが、藩主は家臣団を率いて京都見廻役在勤中で留守にしており、陣屋にはわずかな人数しか残っていませんでした。
圧力をかける立石らに浅尾藩は使者を出して交渉を重ね、その結果、藩側が人足を用意することで立石らは伯耆方面に立ち去ることとなりました。
一方、襲撃事件を受けた幕府側の対応ですが、襲撃隊の討伐のためすでに周辺各藩兵が出兵し、幕府方の広島藩兵、備中松山藩兵、岡山藩兵等が展開しており、立石らへの包囲網が出来つつありました。
浅尾藩との交渉どおり4月12日に宝福寺を出立した立石ら襲撃隊でしたが、翌13日未明、密かに浅尾に引き返してきます。
そして浅尾藩陣屋を急襲したのです。
幕府側の大軍に包囲されかけ当初の計画であった松山城奪取は困難となっており、せめて長州藩の仇敵となった浅尾藩を攻撃して戦果を上げようとしたと考えられます。
立石ら襲撃隊は陣屋内に砲撃を加えて攻めかかり、元々手薄だった浅尾藩側は大混乱に陥ります。
襲撃隊は陣屋の郡会所や周りの寺院、藩士の邸宅に次々と火を放ち、浅尾藩側も大砲を発射するなど応戦したものの、多勢に無勢で抗しきれず、朝のうちに陣屋は炎上、陥落したのでした。
浅尾での被害については、
・焼失家屋13軒(稽古場、家臣住居、集会所、寺院等)
・死亡(浅尾側) 13人(士分2、足軽6、百姓5)
・傷者 7人(士分2、足軽・百姓5)
・死亡(襲撃隊側) 5人
と記録されています。
襲撃隊の末路
倉敷、浅尾と襲撃に成功した立石ら脱走兵でしたが、勢いもここまででした。
幕府方の広島藩兵、備中松山藩兵、岡山藩兵に周囲を囲まれ、身動きがとれなくなってしまったのです。
浅尾陣屋を占拠した立石の元に、12日午後には早速岡山藩の使者が訪れ、倉敷・浅尾の襲撃理由を問いただし、即刻縛につくよう申し入れてきます。
会談は物別れに終わりましたが、大軍を前に立石らは14日に浅尾を脱出、一転して逃亡する側に回ったのでした。
一同は分散して逃亡し再起を図ることとしたのですが、立石らは倉敷で船を手配していたところ幕府軍と戦闘になり、なんとか脱出し四国讃岐に渡ります。
その後宇和島を経て、4月24日にようやく長州(周防)に戻ることができたのでした。
長州征討の幕府軍の後方攪乱に功をなしたと考えていた立石でしたが、待っていたのは過酷な現実でした。
当時、幕府との全面戦争(第二次長州征討)を間近に控え、薩長同盟を結んだばかりの長州藩にとって、この勝手な脱走と襲撃は極めて迷惑な事件でした。
長州藩が襲撃を指示したと幕府側に誤解されることを恐れた藩庁は、周防に上陸した立石らに、すぐさま清水美作(清水宗治の子孫)率いる第二奇兵隊を討伐隊として派遣したのです。
そして4月26日、立石は討伐隊により囲まれ逮捕されようとしたところを抵抗したため、銃撃によって命を落としたのでした。
その他長州に戻った脱走兵らはことごとく捕縛され処刑されていきます。その数は五十人以上に上りました。脱走兵は20代の農民出身の若者が多かったといいます。
結果としてその後すぐの6月に、幕府軍と長州藩は第二次長州征討戦に突入したのですが、この騒動は激動の狭間に埋もれていった事件となったのです。



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