PR

「思案橋事件」~長州士族に呼応した会津士族の反乱未遂事件とは!?

 今回は、明治9年(1876)10月に、旧長州藩士らが起こした萩の乱に呼応して東京で旧会津藩士らが起こした士族反乱未遂事件「思案橋事件」を紹介します。

事件の背景

 明治新政府の急激な改革や外交政策、役人の腐敗などに不満を持つ士族らが各地で反乱を起こしました。

 明治9年(1876)には、熊本の神風連(敬神党)、福岡の秋月党、山口の前原一誠らが連携して一斉に蜂起しましたがそれぞれ鎮圧されています。

 このような情勢の中、思案橋事件は、前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で計画されたものだったのです。

首謀者・永岡久茂

 思案橋事件の首謀者は、旧会津藩士の永岡久茂(ながおか ひさしげ)でした。

 天保10年(1840)の会津生まれで、戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い、北越戦争、会津籠城戦と戦い、降伏後は一時収監されますが、後に会津藩が転封された斗南藩の権小参事に就きます。

 この時、越後府判事であった旧長州藩士の前原一誠や奥平謙輔らと交流を始めています。始まりは斗南藩の窮乏を説いて救済を求めたものだったそうです。

 なお奥平謙輔は、会津藩の秋月悌次郎と元々交友関係にあり、維新後は山川健次郎(元家老山川浩の実弟:東京帝大学長)を書生として面倒を見るなど、会津と繋がりのある人でした。

 その後永岡と前原一誠らとの交流は続いていきます。前原は参議や兵部大輔を務めた後に新政府の方針と合わず下野します。

 永岡は廃藩置県後に青森県官を勤めますが、ほどなく職を辞し、明治7年に東京で政府を辞した薩摩士族らと新聞社を設立します。明治政府を強烈に批判する意見を出し続け、多くが発禁処分となりました。

 そのような活動を続けながら前原ら各地の不平士族との関係を築いていく中で、言論での限界を感じ、武力による政府打倒を計画するに至ったのです。

 明治9年8月には、前原の腹心の玉木正誼(まさよし:乃木希典の実弟)が東京の永岡の元に来訪し決起の打合せを行います。

 永岡の計画は、まず千葉県庁を襲撃して軍資金を奪い、その後、佐倉に駐屯していた東京鎮台歩兵第2連隊を味方に引き入れ、さらに日光方面から会津へ進軍、又は新潟の同志達と合流して全国的な展開にする構想を持っていたといわれています。

 この頃永岡の仲介で旧会津藩士数十名が千葉県の警察官として採用されており、その同調も期待していたようです。

事件の経過

 明治9年10月28日に萩の乱が勃発すると、その知らせは電信によって各地へ伝えられました。

 そして翌29日夜、永岡久茂ら会津士族を中心とする、島根士族、静岡士族ら十数名は、東京・日本橋小網町付近にあった思案橋に集結しました。永岡らは船で千葉方面へ向かい、そこで挙兵しようとしたのです。

 彼らは思案橋付近に停泊していた五艘の船に乗り組みました。しかし、刀を隠し持ち不穏な会話を交わす不審な様子であったため、船夫らが怪しみ、理由を付けて出航を遅らせながら、うち一人が警察に届け出ようと抜け出します。

 そして警察署に駆け込み、当直であった旧津藩士の寺本義久警部補ら4名の警官にその旨を告げると、4名は直ちに現場へ駆け付けたのです。

 そして永岡らの集団に対して問いただしたところ、不意に傘に仕込んだ刀を抜いて斬りかかってきたのでした。

 格闘の末、警官は寺本が即死、2人が重傷を負いますが、1人が傷を負いながらなんとかその場を逃れて警察署に戻り報告します。そして早鐘を打ち鳴らし、付近一帯にその音が響き渡ったのです。

 なお、永岡の近辺に警察から密偵が送り込まれ、情報が漏れていたとの話もあります。

 直ちに集まった警官隊が現場へ急行、格闘の結果怪我を負った永岡ら4名を捕縛します。さらに逃走した反乱士族らの捜索を続けた警官隊は、午前三時頃に深川で小舟に乗った5名を発見したのです。

 小舟を挟んだ警官の船に対して反乱士族たちは刀を抜き睨み合いを続けましたが、ついに諦めて刀を差出し縛についたのでした。

 その後も市街では終夜警戒体制が続き、各地で往来が差し止められ、宿の改めも行われました。

 千葉県庁にも至急電信がなされ、警戒のため早馬で警官隊が派遣されるなどし、千葉では何も起こらないまま終わりました。

 なお、重傷だった警官の1人も死亡し、警官の死者は2名となっています。

 逃亡した残りの反乱士族たちは、一部が新潟の同志を頼って落ち延びましたが捕縛され、あるいは行方知れずとなったのでした。

 一人は逃走後会津まで落ち延びた後明治11年に一旦捕縛され、その後脱走しますが、同年自害しています。

事件の結末

 事件の際に負傷した永岡は獄中で傷が悪化し、明治10年1月14日に死亡しました。37歳でした。

 遺骸は西洋留学から帰国して開成学校の助教授になったばかりの山川健次郎が兄浩らと引き取り金を工面して葬式をあげました。健次郎の留学には永岡の推薦もあったといわれ、健次郎の恩師で永岡の同志であった奥平謙輔も萩の乱で命を落としています。

 そして翌2月の裁判では、旧会津藩士3名が斬罪、その他8名が懲役刑に処されました。

【斬罪】
岩手県士族(旧会津藩士) 1名
青森県士族(旧会津藩士) 2名

【懲役】
終身 東京府士族(旧会津藩士) 1名
十年 福島県士族(旧会津藩士) 1名
七年 島根県士族        1名
五年 静岡県士族        1名
鹿児島県士族          1名
東京府平民(旧会津藩士)    1名
三年 開拓使士族(旧会津藩士?)1名
一年 青森県士族(旧会津藩士) 1名

 また、新潟の同志であった大橋一蔵も捕えられ終身刑を申し渡されています。

 なお、初めに永岡らの不審な動きを届け出た船夫らには千葉県庁から報奨金が出されたそうです。

【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
〇歴史資料大集成刊行会)
〇近世日本国民史刊行会)
〇法窓秘聞(尾佐竹猛著:育生社)