今回は、西南戦争の前年である明治9年(1876)に起こった士族の反乱である秋月の乱についてです。この乱は、単に不平士族対政府軍の戦いではなく、政府側に付いて戦った地元の士族たちがいました。
互いの信じる正義がぶつかった乱の経過と結末を紹介します。
秋月藩と豊津藩
まず乱を起こした旧秋月藩ですが、福岡藩の支藩に当たり、現在の福岡県朝倉市秋月におかれた5万石の藩でした。
幕末には藩内の抗争により重役であった臼井亘理が暗殺される事件があり、後に日本最後の仇討ちともいわれる有名な臼井六郎の仇討ち事件にもつながっています。この時臼井亘理を暗殺した干城隊に属していた藩士らが、秋月の乱を起こした中心メンバーとなりました。
また、今回のもう片方の主役である豊津藩は元々の小倉藩です。第二次長州征討での長州藩の侵攻により小倉城を自焼して田川郡香春(かわら)に撤退し、藩庁を香春へ移転。更に明治2年12月、京都郡(みやこぐん)豊津(現みやこ町)に藩庁を移して豊津藩(とよつはん)となったのです。
なお、小倉から撤退した際、藩主小笠原忠忱(ただのぶ)は熊本まで避難しましたが、その一行を途中の秋月藩が世話をしたという関係もありました。
反乱の経緯
明治新政府の急激な改革や役人の腐敗などに不満を持つ士族たちが幾度も反乱を起こしましたが、まず大きなものとして、明治7年(1874)に江藤新平を中心とする佐賀士族ら約一万二千人が佐賀の乱を起こし鎮圧されます。
しかし各地の士族たちの不満は残ったままで、長州の前原一誠ら、熊本の神風連、そして福岡の秋月士族が水面下で連絡を取り、合わせて決起することとしたのです。
まず、明治9年(1876)10月24日、熊本で神風連が決起します。これには秋月からも3名が派遣され襲撃に加わり、熊本城に置かれた熊本鎮台や要人宅を夜襲したのです。
しかし急襲には成功するも、体勢を立て直した鎮台兵によって襲撃隊は次々と討たれていき、熊本の同志たちと再起を約した3名は秋月へ戻ります。
そして、神風連の決起から3日後の10月27日、盟約どおり秋月士族も挙兵したのです。秋月での挙兵の中心となったのは旧干城隊の幹部だった今村百八郎で、約250名が集まりました。
その際には、偵察に来ていた、旧福岡藩士で警察官となっていた穂波半太郎を捕えて血祭りに挙げて気勢を上げます。目撃者の記録によると、決起場所の寺の境内で穂波が今村の前に引き据えられると、今村は片膝を付きながら「御免」との一声と同時に得意の居合により一刀で斬り、穂波は前のめりに倒れたそうです。
士気旺盛な秋月党でしたが、武器はわずかな旧式銃に抱大筒、刀槍に具足を着けている者もいるような状況でした。
なお、秋月士族全てが決起に同調していたわけでなく、百八郎の兄の宮崎車之助や藩校の教授だった磯淳らは自重派で、決起を思いとどまらせようとしていましたが百八郎らを抑えることができず、結局覚悟を決めて同調することにしたのです。
秋月党の計画は、秋月から福岡県の東部に位置する豊津に向かい、豊津士族を仲間に加えて渡海し、山口の前原一誠らと合流しようとするものでした。秋月党は豊津士族の杉生十郎と密かに盟約を結んでいたのです。杉生は戊辰戦争に従軍後、大阪の兵学寮(士官学校の前身)でも学んでいた人物でした。
豊津での戦い
陣太鼓を打ち鳴らし、昔ながらの作法で挙兵した秋月党は、計画通り豊津へと向かい、2日後の29日には豊津の入口に到着します。
秋月党が同調を期待していた豊津士族でしたが、この前に豊津では大激論が起こっていました。秋月党に同調して決起を主張する若手の杉生十郎に対し、旧藩の重役であった生駒九一郎ら大多数は、決起に反対でした。
長州征討戦で故郷の小倉を追われ、戦乱の厳しさを知る豊津士族だからこそ、今更新政府を倒し戦乱の世に戻すことなどあり得なかったのでしょう。
生駒らは秋月党に同調しないことを決定し、杉生を縛って旧藩士の集会所となっていた学校の押し入れに監禁します。そして士族を集め警戒態勢をとるとともに、小倉鎮台(分営)に秋月党の動向を知らせ、援軍を求めたのです。
なお、豊津には予備役的な士族貫属隊というものがあり、佐賀の乱の鎮圧にも政府軍に協力して参戦していました。この隊に入ると廃刀令後にも帯刀が許されていたため、隊士は多かったといいます。
豊津から応援を求められた小倉分営の第14連隊を率いていたのは連隊長心得であった長州出身の乃木希典少佐でした。
乃木希典の日記によると、25日早朝には熊本鎮台から士族決起の連絡があり、直ちに情報収集のため大迫大尉と谷村計介伍長を熊本に派遣します。長州の前原一誠らや福岡、佐賀士族の動向にも警戒する必要があり極めて難しい判断を迫られましたが、小倉分営からぎりぎりの兵を部下に与えて直ちに豊津に向かわせることにしました。
豊津では士族隊が警戒態勢を取るものの、秋月党を刺激しないよう、あくまでも戦わず同調もせずそのまま通過させようとなっていました。そのような事情を知らないまま秋月党は豊津の入口に到着したのです。
到着後すぐに秋月党は異変に気付きます。盟約を結んでいた杉生十郎とは連絡が取れず、豊津士族が挙兵に加わる気配が見えません。
豊津側に決起を促そうと士族集会所となっていた学校に使者を送りますが、豊津士族は政府軍の応援が到着するまで時間を稼ごうと、のらりくらりとした対応で秋月党の要求をかわします。
しびれを切らした今村は、遂に豊津に押して入る決意をします。豊津の入口に配置された豊津士族の部隊は、到着した秋月党をそのまま通過させたのですが、皮肉にもこれで秋月党は退路を断たれ包囲されることとなったのです。
今村は豊津の自重派代表と目された生駒九一郎と直接談判しようと再度豊津士族が集まる学校へ使者を送ります。そして秋月党が学校に着いたところ、丁度生駒九一郎が士族隊の指揮のため外に出るところでした。
秋月党の使者が「杉生殿はどこにいるのか」と尋ねるも「分からない」と生駒は答えます。更に秋月党は「では生駒九一郎殿は居るか」と尋ねたため、生駒は咄嗟に「いない」と答え、自分の名を尋ねられると別名の「生駒主税」と名乗り追及をかわしたのです。
使者は生駒九一郎の顔も別名を知らなかったため、生駒はその場をすり抜けることに成功します。
使者は学校内に入り、杉生や生駒に会わせるよう要求しますが豊津士族側は「責任者がいない」とのらりくらりと要求をかわし続けたのです。
そのような中、突如数発の銃声が聞こえました。小倉分営の部隊が到着したのでした。秋月党は豊津側が政府軍と通じていることに感づき、急ぎ抗戦の準備を始めます。
秋月党の予測では、小倉分営は長州の反乱士族のため身動きがとれず、その間に豊津士族を加え海を渡り長州勢と合流しようと計画していましたが、その予想は裏切られ、乃木の判断により一早く政府軍がやってきたのでした。
政府軍の動きは素早く、豊津士族の先導で三方から進攻し秋月党の本陣を包囲しつつありました。
秋月党も急いで散兵線を敷いて戦闘態勢に移りますが、新式銃で攻撃してくる政府軍と、旧式銃と刀槍の秋月党では圧倒的に不利で、どんどん押し込まれていきます。
秋月党は抜刀攻撃で抵抗しますが、ここで豊津士族隊が鎮台兵に味方して加わり、壮絶な白兵戦も繰り広げられたのです。
秋月党は次々と倒れ、傷ついた者は自刃していき、戦いは2時間ほどで決着が付き、やがて総退却せざるをえない状況になります。
鎮台兵と豊津士族に囲まれた秋月党は、意を決して豊津方に斬り込んだところ、自然と退路を開いてくれたといいます。豊津士族にも複雑な感情があったのでしょう。
秋月党は退却に当たって、装填している大筒には手拭を十文字に架けて危険を示した上で放棄するなどしたといいます。豊津に伝わっている話では、敗れはしたものの秋月党の態度は立派であったそうです。
戦いを目撃した人の話では、「人と人とが向き合っての真剣勝負は、やたらと斬り結ぶことはせず、長い時間対峙して白刃一閃、その瞬間にどちらか一人が血しぶきの中に倒れていた」ということです。
この戦いで、秋月党17名、鎮台2名、豊津士族2名が命を落としました。政府兵の中にも秋月出身者がおり、倒れた秋月党の遺髪を泣きながら切り取り、後に小倉の寺で弔ってもらったという話も残っています。
秋月に帰る者、逃亡する者と別れた秋月党でしたが、宮崎車之助や磯淳(あつし)ら自重派だった7人は共に自害しています。その最期について伝えられた話によれば、
ということです。
なお、乃木希典は戦闘終了後の31日に自ら豊津入りし、集合し警戒体制のままだった千余人の豊津士族たちを解散させています。
抗戦派の今村は仲間とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃し県高官2名を殺害、反乱者側として拘留されていた士族約200名を解放した上で逃亡しました。
その後各地で秋月党の逃亡者は捕らえられていき、今村は11月24日に福岡県内(現大刀洗町)で逮捕されます。
そして12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村は除族の上即日斬首、その他実刑判決が22名、除族124名の判決が下されています。今村は35歳でした。
秋月党は戦死17名に自刃や刑死2名を加えると36名が命を落としたとされています。
萩の乱
10月24日の神風連、10月27日の秋月党と合わせて、10月28日に前原一誠らが萩の乱を起こしましたが、こちらもやがて鎮圧され、この三党での一斉蜂起は失敗に終わったのでした。
なお萩の乱には、乃木希典の実弟である玉木正誼(たまきまさよし)が前原一誠の参謀として参加し戦死しています。
皮肉にも兄弟が敵味方となって戦ったのですが、正誼は松下村塾の創立者である玉木文之進(松陰の叔父)の養子となって維新後の松下村塾での育成に携わっており、塾生らを率いて乱に参加していたのでした。塾生の多くが乱に参加していたため、玉木文之進は責任を取って自害、塾も閉鎖されています。
その後
互いが自らの正義を信じて戦った士族による反乱は、翌年の西南戦争により終結することとなります。
秋月党と盟約を結びながら監禁されその目的を達しなかった杉生十郎は、秋月の乱後捕えられ収監されましたが、釈放後、興産事業を始めました。これは秋月党の遺族を救済したいとの目的があったそうですが失敗し、事件から8年後の明治17年、秋月党への謝罪を言い残して自害しています。
なお、明治22年7月、大日本帝国憲法発布の大赦により今村らの内乱罪は赦されています。
【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
〇明治大正昭和歴史資料大集成(郷土文学社)



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