小松姫と真田信幸
小松姫(稲姫・小松殿)は徳川四天王の1人である本多忠勝の娘で、天正元年(1573)に生まれています。幼名を稲姫といい、大河ドラマ「真田丸」では吉田羊さんが演じています。若い時から相当勝気な性格だったようです。
天正10年(1582)の武田家滅亡後、甲州・信濃進出をはかる徳川家と武田遺臣であった真田家は争いを続けます。
天正15年(1587)に秀吉の仲介で和睦して真田家が徳川家に従属することとなり、この和睦の証として小松姫が家康の養女の形をとって真田家の嫡男であった信幸(信之)に嫁いだのです。
政略結婚でしたが、小松姫と信幸の仲は良く、小松姫の影響もあってか信幸は徳川家への傾倒を強めていったのでした。
沼田城守将小松姫
そして天下分け目の関ヶ原の戦いを迎えます。戦いの前に家康は上杉景勝討伐の兵を東北に向かって進め、与力大名である真田家も参陣することとなります。
当時信幸は、真田家の本城である上田城と別の重要拠点であった沼田城を預かっていましたが、父昌幸や弟信繁(幸村)と共に東軍として出発しました。
下野国(栃木県)を進軍途中、家康を見限り西軍に付こうと主張する昌幸・信繁と、あくまでも家康に従うとする信幸が一晩激論を交えるも物別れに終わり、信幸は家康に付くために留まり、昌幸と信繁は西軍に付くために上田城に引き上げることとします。
上田への途中に沼田城はありますが、昌幸達は城に立ち寄ろうと先に使者を出し、「孫の顔も久しく見ておらず、疲れもあるから一晩城に泊めてくれ」と留守を預かる小松姫に伝えます。
ところが小松姫は単なる留守番ではありません。思慮深く世の情勢にも通じており、使者に対して「なぜこんなに早く帰ってくるのか。訳を教えてもらいたい。舅殿はどこから帰ってくるのか」と尋ねます。
答えに窮する使者に対し「伊豆守殿(信幸)は一緒ではないのか」と詰め寄り、「御舎弟殿(信繁)は一緒ですが」と答えられると、全てを悟り、
「舅殿だけで伊豆守殿が帰ってこないのはおかしいではないか。我は女の身であったも夫から命を受けて城を守っている。敵味方となってはいくら舅殿であっても城に入れるわけにはいかぬ。ほかに泊まる場所を用意するので休まれるがよい。強いて城に入ろうとするならば是非に及ばず、弓矢の作法を御見参に入れる。しかと申し伝えよ」
と毅然として告げ、直ちに戦闘態勢に入るよう城内に指示を出します。
(画像)沼田城
圧倒された使者は返す言葉もなく、昌幸の元に戻って報告すると、昌幸は
「さすがは中務(忠勝)の娘じゃ。ただ孫に会いたかっただけだが我の方が軽率だった」
と感心したといいます。
小松姫は城外の正覚寺に宿を用意し厚く歓待するよう指示するも決して城には入れず、昌幸達はそのまま上田に出立します。
更に、城下に残る家臣達の家族に対して「気晴らしに城内で大宴会をするので子供まで含めて一人残らず城の中に入るよう」指示を出して皆を城内に入れると、城門を閉ざしてしまいます。
これは、万一昌幸達が攻めてきても家族を人質に取られることがないように念には念を入れたものだったとか。
正式な城主ではありませんでしたが、小松姫は見事に女城主としての役割を果たしたのではないでしょうか。
なお、その後小松姫は、父忠勝を通じて昌幸たちの助命を嘆願したり、九度山に流された昌幸たちにも気を遣って手紙や物資を送ったりしているようです。
立派に筋を通す人だったのでしょうね。
小松姫に関するその他の話はこちら
その他の女城主話はこちら
新着記事