安濃津城の戦い
伊勢安濃津城主であった富田信高は徳川家康の上杉討伐に従軍していましたが、石田三成挙兵の報を受け、家康の命により伊勢上野城主分部光嘉らとともに先行して伊勢に帰り西軍に備えることとなります。
船旅の途中九鬼嘉隆に捕捉されそうになりながらも伊勢に辿り着いたのですが、伊勢の東軍勢は少なく、分部光嘉らとともに結集して安濃津城(津城)に籠って戦うこととしたのです。
安濃津城の籠城兵は千数百人であったといわれ、進軍してきた毛利秀元らの西軍3万に城を囲まれ、一気に総攻撃を受けます。
大軍が一気に雪崩れ込んで大激戦となり、城将の信高や光嘉も自ら鑓を振るって戦いますが、光嘉は深手を負い、本丸正面で戦う信高も側近が次々に討たれ、信高は家臣から「もはやこれまで。本丸に戻り御自害くだされ」といわれます。
しかし、次々と追手が押し寄せ、本丸の中に戻る事すらままならなかったところ、突如本丸から緋縅の鎧、半月の兜を纏った美顔の若武者が片鎌の鑓を手に信高の前に出てきて、襲い掛かる追手と鑓を合わせ5,6人を打ち倒したのです。
更に前に進み戦う若武者に信高は驚きますが、見知った武者ではなかったため、敵と戦いながらも近習の右馬介に「あの若武者は誰だ?小姓の誰かか?」と尋ねますが、右馬介も「いや、わかりません。違うようです」と答えます。
右馬介も前に出て戦いながら若武者の兜の内を見たところ、化粧をしてお歯黒をしていたため、驚いて信高に「あの若武者は化粧をし歯黒を付けています。女に違いありません」と告げたのです。
若武者のおかげで勢いに乗った信高らはついに門外まで敵を押し返すことに成功し、信高は引き返しざまに若武者の顔を見ようとしたところ、若武者の方から信高に近寄ってきたのですが、なんと信高の妻(宇喜多氏)であったのでした。
妻は、
「討死されたと聞き、同じ場所で死のうと鎧を纏って本丸から出てきたところ、思いがけずまだ戦っているあなた様を見ることができました」
といい、信高は大いに驚き、
「そなたはなぜこのような働きができるのだ。はやく中に入れ」
と妻を先に押し立てて本丸に戻ったのでした。
この妻は宇喜多秀家の叔父忠家の娘で、千姫事件で有名な坂崎直盛の姉に当たり容姿も大層優れていたそうです。
妻の存在もあったのでしょうか、その後信高は開城を受け入れ生き延びる道を選び、分部光嘉とともに剃髪し高野山に上りますが、戦後家康からこの戦いの善戦を称えられ、信高は2万石、光嘉は1万石の加増を受けています。
富田家と分部家のその後
後に信高は宇和島藩10万石の藩主とまでなりますが、妻の弟坂崎直盛の処から出奔してきた家臣を匿ったことで直盛から訴えられ、改易となってしまい磐城平の鳥居忠政に預けられ同所で死去しています(縁戚関係があった大久保長安事件に連座して改易されたとも)。
妻の詳細な消息は分かっていませんが、信高と行動を共にし同所で没したのではないでしょうか。富田家の子孫は旗本などで残っています。
なお、共に戦った分部光嘉はこの安濃津城の戦いでの傷がもとで翌年死去していますが、子孫は代々近江大溝藩主として明治まで続いています。
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