大名の窮乏
江戸時代の大名家は参勤交代、幕府の御手伝い普請、格式による儀礼などで出費が重み、常に金策に窮していました(にもかかわらず贅沢をする大名もいましたが(/ω\))。
貧乏情勢
大名の窮乏は幕末に始まったことではなく、江戸幕府成立後6,70年後には、学者の熊澤蕃山が
といい、各藩とも莫大な借金をしているとしてます。
江戸中期の経世家(経済学者)大宰春台は、
家臣の俸禄を1割から多い所では5,6割も借り上げている。
それでも足りなければ領民に献金などをさせて急をしのいでいる。
更に足りなければ江戸・京・大坂の大商人から借金をしているが、毎年借りるばかりで利子が膨らみ、債務が何倍になっているかもう分からない位である
更に、
年貢収入で支払っても足りず、普段から借金の返済を迫られ頭を下げて心休まる暇もない。
子銭家を見ては鬼神を恐れるようで武士であることを忘れて町人に頭を下げ、或いは先祖代々の宝物を抵当に入れて急場をしのいでいる。
家中の者は飢えさせて子銭家には珍しい料理で饗応し、或いは子銭家に禄を与えて家臣の列に加えたりもする。
つけで買った物の代金を支払わず、職人人夫の工賃も踏み倒して困窮させたり、およそ恥を忘れて不仁不義を行う者、武士は皆この有様で大名ですらそうである。微禄の家臣はいうまでもない。
としています。
江戸後期の経世家佐藤信淵も、
としており、大名より豪商や豪農の方がはるかに裕福だったのでしょう。
500両がない
天保の頃、ある5万石程度の大名は、実弟が旗本に縁組する際、手元にはわずか200両しかなく婿入りの支度金500両がどうしても用立てできなかったため、先祖伝来の刀や掛け軸を売り払い、ようやく間に合わせることができたと伝わります。
火事貧乏
「火事と喧嘩は江戸の華」との言葉があったように、江戸時代、特に江戸では火事が多発していました。(木と藁と紙で作られた家がひしめいていましたので・・)
江戸や国元の屋敷が焼けても火災保険などはありませんので当然全て手出しになります。場合によっては再築に数年分の歳入を要したともいわれ、火事で財を成す材木商がいた一方、諸大名窮乏の一因となっていました。
将軍の子供は大迷惑
将軍家斉のように子沢山の場合、子供を各大名に縁組させます。姫を迎えるのも膨大な費用が必要で、御付きの老女が将軍家のしきたりを引き合いに出して倹約は拒否され、贅沢をさせなければなりません(´Д⊂ヽ
有名な東京大学「赤門」も、文政10年(1827)に家斉の娘溶姫が加賀藩主前田斉泰に輿入れした際、溶姫を迎えるために造られたものです。
姫を迎えるために家臣の俸禄が半減された家もあったそうです。更に男子の場合は実子や実弟を差し置いて世継ぎにせねばならず、大名も大変迷惑したようです。
各藩の財政対策
このような財政悪化の中、各藩では、新田開発、特産の奨励・独占(専売制)、年貢の増徴、家臣知行の借上げ、藩札の発行、藩校の設立など、倹約から人材の育成まで藩政改革に励んできましたが、財政健全化に成功したのは一部でほとんどの大名が赤字であることには変わりありませんでした。
各藩の藩政改革
江戸中期における各藩の藩政改革としては、米沢藩の上杉治憲(鷹山)、熊本藩の細川重賢が行った改革などが有名ですね。
特に上杉家は関ヶ原の戦い後に120万石から30万石へと減らされ、更に景勝の孫綱勝が子のないまま死去してしまい、末期養子が認められるも15万石に半減となったにもかかわらず戦国以来の家風・格式を守り藩士を減らさなかったため、財政窮乏は極致に達していました。
どうしようもなくなった8代藩主重定は藩土を幕府に返上しようとしようと縁戚の尾張藩に相談しますが諫められ、結局重定は養子の治憲に藩政を放り投げ隠居してしまいます。
上杉治憲は50人いた奥女中を9人に減らし、自身の仕切料(生活費)を年間1500両から209両に削減、着物は木綿、食事は一汁一菜とするなど自ら率先して倹約に励む一方、産業振興、教育に投資し改革を進め、生涯をかけて米沢藩財政の立て直しに成功しています。
留守居役の役目
大名が在国時に江戸には留守居役がいましたが、留守居役の最も重要な役目は幕府からの御手伝い普請要請をあの手この手で逃れる「御手伝い除け」だったともいわれています(>_<)
その後の大名財政
多くの大名家の財政は困窮したままで、藩政改革に成功した一部の藩は幕末に雄藩として倒幕に活躍します。
維新後の「廃藩置県」という革命並みの大改革が反乱もなく成功したのは、各大名家の借金を新政府が引き継ぎその返済から解放されることが大きく影響したようです(>_<)
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