比較的平穏な時代とイメージされる平安時代ですが、400年もの間には様々な戦乱が起こっています。今回は、平安時代に起こった主な戦乱について簡単に紹介していきます。
阿弖流為の戦い
朝廷の東北支配拡大に伴い、蝦夷との戦いが度々起こっており、延暦8年(789)に胆沢地方(現岩手県)であった巣伏の戦いでは蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)に朝廷軍が大敗します。
その後延暦21年(802)に征夷大将軍坂上田村麻呂によって制圧され、降伏した阿弖流為は田村麻呂の助命嘆願もかなわず河内国で処刑されています。
新羅賊の来寇(新羅の入寇)
元寇や刀伊の入寇以前にも、朝鮮半島の新羅の賊から九州沿岸が度々襲撃を受けています。弘仁4年(813)に肥前に現れたのをはじめ、貞観11年(869)に博多、寛平3年にも対馬へと略奪に来襲してきています。
そして寛平6年(894)には、対馬に40数隻もの船に乗船した2500人ともいわれる新羅の賊が押し寄せますが、蝦夷との戦いなどで武人として経験を有していた島司の文屋善友が、賊を、弩を構えた陣に誘い込んで大量の矢を浴びせ、混乱し退却するところを追撃し散々に打破り撃退しています。
この来寇は凶作の影響による新羅の国ぐるみのものであったといわれています。
元慶の乱(がんぎょうのらん)
元慶2年(878)3月、出羽国の俘囚(帰属した蝦夷)たちが、秋田城司の暴政に対して大規模な乱を起こし秋田城も焼かれます。
陸奥国からの援軍も受けますが乱は収まらず、各国で善政を行い良吏として名高かった藤原保則が出羽権守として派遣されます。
保則は関東各国からの援軍も受けるとともに交渉による懐柔政策も進め、翌年3月にようやく鎮撫されています。
天慶の乱(てんぎょうのらん)
ほぼ同時期に東国と西国で起きた2つの乱を総称したものです。
平将門の乱
天慶2年(939)12月、下総を根拠地とし一族と死闘を繰り返して勢力を広げてきた平将門が、常陸の国府を襲って国印を奪い、さらに下野・上野の国府を攻め落として国司を追放し、関東の大半を支配下に治めます。自らを新皇と称しますが、翌年2月には、将門の従兄弟にあたる平貞盛や下野の豪族藤原秀郷らに討たれて鎮圧されます。
藤原純友の乱
伊予国司であった藤原純友は任期が終わっても帰京せず、瀬戸内海の日振島を根拠として海賊となり天慶2年(939)に乱を起こします。東は淡路島、西は大宰府まで勢力を伸ばし暴れまわりますが、翌々年に小野好古、源経基(清和天皇の孫・清和源氏の祖)に討伐されます。
武士団が反乱を起こしそれを武士団が鎮圧したこれらの乱を通じて、朝廷や貴族は武士の実力を認識するようになり、「侍」として積極的に奉仕させるようになります。また、地方の国司のもとにも組織させ、「追捕使」や「押領使」に任命して治安維持を任せるようになります。
「追捕使」~盗賊や反乱者を追捕
「押領使」~内乱などに際して兵士を統率
刀伊の入寇(といのにゅうこう)
寛仁3年(1019)に、女真族とみられる集団を主体とした海賊が50余りの船で壱岐・対馬を襲い虐殺、略奪を繰り広げ、更に博多などに侵攻しましたが、大宰権帥藤原隆家率いる九州の豪族が撃退に成功しました。この頃には地方に武士団が形成、発展していたことがわかります。
平忠常の乱
平氏一族は将門の乱後も関東に勢力を維持しており、長元元年(1028)に元上総国司の平忠常(母は平将門の娘)が反乱を起こして3年に渡って房総を占拠しましたが、源頼信(源経基の孫・源頼朝の6代先祖)が追討使に起用されるとその武名を恐れ戦わずして降伏したといわれており、関東では平氏は衰退して代わりに源氏が勢力を伸ばすきっかけになりました。
前九年の役(ぜんくねんのえき)
永承6年(1051)から 康平5年(1062)にかけ、陸奥で勢力を誇っていた豪族安倍頼時が、息子の貞任や宗任、娘婿の藤原経清らと共に国司に反抗します。
乱は長期に及びましたが、東国の武士を率いた源頼義(頼信の子)、義家父子が清原武則の加勢を受けて平定し、源氏は東国での基盤を確立します。
後三年の役(ごさんねんのえき)
前九年の役の後、永保3年(1083) から 寛治元年(1087)にかけ、奥羽を実質支配していた清原氏の相続争いに陸奥守であった源義家が介入、藤原清衡(藤原経清の子・奥州藤原氏の祖)とともに清原氏を滅ばします。
義家は戦いに加わった東国武士団に私財で恩賞を与えるなどして主従関係を強め、源氏の信望を高めました。
源義親の乱
源義家の嫡男義親(源頼朝の曾祖父)は、赴任先の九州で乱暴を働き隠岐に流されることとなりましたが、嘉承3年(1108)に出雲で反乱を起こし、平正盛(清盛の祖父)に追討されます。
これにより源氏はやや勢いを失い、院と結んだ平氏が勢力を強めていきます。
大蔵合戦(おおくらかっせん)
久寿2年(1155)、秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びつき、武蔵国で源義平(源頼朝の兄)が源義賢(木曽義仲の父)の拠点であった大蔵館を襲撃し、義賢と秩父重隆を攻め殺します。保元の乱の前哨戦ともされています。
保元の乱(ほうげんのらん)
保元元年(1156)、皇位を巡る対立(後白河天皇対崇徳上皇)や摂関家の内紛(藤原忠通対頼長)のため、武士団(平清盛・源義朝対平忠正・源為義)を動員した内戦になり、先制攻撃を仕掛けた後白河天皇方が勝利して、崇徳上皇は讃岐に配流、藤原頼長は敗死、平忠正・源為義は処刑されました。
天皇や貴族も武士の力に負うところが大きく、「愚管抄」ではこれ以後「武者の世」になったと記しています。
平治の乱(へいじのらん)
保元の乱後しばらくすると、後白河上皇近臣間の対立が深まり、平治元年(1159)、藤原通憲(信西)に近い平清盛が熊野詣に出かけている留守を狙って藤原信頼、源義朝が兵を挙げて通憲を自殺させましたが、最終的に京に戻った清盛が勝利し、信頼は処刑、義朝は関東へ逃れる途中で謀殺されました。これ以後清盛の権力が急速に高まり貴族を凌ぐようになります。
以降は源平合戦(治承・寿永の乱)の時代に移っていきます。
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