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「本能寺の変」の原因~秀吉黒幕説についての考察

 今回は、本能寺の変「秀吉黒幕説」についてです。

 秀吉黒幕説といっても、他の黒幕説と同様、秀吉が変を企てて光秀を操ったといった主犯説から、共謀、唆し、黙認など無数に説がありますが、様々な説において秀吉が怪しまれる理由について考察してみたいと思います。

中国大返しは可能だったのか?

 一般的によくいわれるのが、秀吉の中国大返しがあまりにも出来すぎで、事前に謀反が起こるのを知っていたのではないかということです。

なぜ本能寺の変を早く知ることができたのか?

 秀吉が変を知ったのは、明智光秀から毛利家へ密書を届ける間者を捕らえたことによるといわれています。

 しかし、そもそも本能寺の変は万単位の兵が動いた大事件であり、秀吉ほどの知恵者ならば、敵国や同盟国だけでなく織田家中にも情報網を張り巡らせておいたはずなので、間者の捕縛有無にかかわらず、一早く情報を入手したのはむしろ当然のことではないでしょうか。

大返しの実態は?

 時系列としては諸説ありますが、大まかには

6月2日  本能寺の変
6月3日  秀吉が変を知る
6月4日  毛利と和議を結ぶ(清水宗治の切腹)
6月6日  備中高松(現岡山県岡山市北区)を出発
6月7日  姫路到着
6月13日 山崎の合戦

といわれています。

 大返しについては情報統制の上で隠密裏に行われているため、日程に関して多少の前後はあると思いますが、ここで分かるのは一気に200キロ引き返して山崎の合戦まで雪崩れ込んだのではなく、一旦姫路で体制を整えており、実際の強行軍は高松城から姫路城までは約90キロになるということです。

 なお、毛利家の出方を見ながらじりじりと途中にある宇喜多家の沼城(岡山市東区)まで引き上げて、その後一気に引き返したとすると更に短い約70キロの強行軍になります。

 姫路にも一気に到着したのではなく、早い騎馬武者から順次日数をかけて到着したはずであり、また、元々中国攻めの準備として畿内との兵站経路も当然に整備していたでしょうから、3日に初めて変を知ったとしても不可能な行軍ではなかったのではないでしょうか。

 柴田勝家や滝川一益ら他の重臣に比べれば見事な行動であることに間違いはありませんが、
「信長の仇を討つため急いで戻った」
というより、
「毛利家の追撃を逃れた見事な『退き口』(撤退)」
を実行し、機に乗じて光秀を討ったようなイメージを持ちます。

最大の受益者は怪しい?

 結果として天下を取った秀吉が、信長の死による最大の受益者にはなることに間違いはないでしょう。ただし、秀吉の天下は、柴田勝家、織田信孝、織田信雄、徳川家康らと争って得た間接的結果です。

 直接的受益者としては、織田軍の攻略を受けていた毛利、上杉、長宗我部らの大名や、朝廷(考え方によれば)など多く存在します。

 混乱に乗じて甲斐信濃を手に入れた家康と同様、秀吉は事件を最大限に利用した間接的な受益者であるのに過ぎないのではないでしょうか。

信長への忠義は?

 秀吉の信長に対する思いというのは、忠義というより、畏怖、利害関係者としての側面が強かったのではないでしょうか。

信長の息子たちの処遇

 三男信孝を切腹に追い込み、小牧長久手の戦い後に講和した次男信雄については、父祖の地である尾張からの国替えを拒否したとして改易しています。

 そもそも秀吉が擁立していた三法師(信長の嫡孫)に対しては、一応庇護して官位と13万石の領地を与えているものの、あくまでも豊臣配下の将としての扱いであり、元服後の名も「秀信」とさせ、秀吉の「秀」を信長の「信」の上に置いています。

信長を呼び捨て

 近年確認された秀吉の書状で、「自分の意に背く者を信長の時のように匿うと処分する(意訳)」と書かれたものがあり、本能寺の変からわずか3年後には信長を呼び捨てにしています。

光秀の不安を煽った?

 秀吉が光秀の不安を煽り謀反を起こすよう仕向けたとの話は江戸初期からあったようです。

ある時秀吉が光秀に対し「お主が丹波亀山城を夜密かに改築して謀反を企てていると皆言っているぞ。如何じゃ」と言ったが、光秀は笑って取り上げなかったという(老人雑話)
光秀の重臣斎藤利三は元々稲葉一鉄に仕えていたが、一鉄とそりが合わず光秀に仕えるようになった。
しかし一鉄が光秀に利三を返すよう申し送ったため一鉄の元へ返した利三であったが再度出奔し光秀の元へやってきた。
一鉄は怒って信長に訴え、信長も腹を立てて光秀を詰問すると、
「2度も出てくるというのはよほど一鉄と合わなかったのでしょう。利三は役に立つ男ですが、また一鉄の元へ返すと今度は他国へ出奔してしまうおそれがあるため私のところに置いているのです。」
と答えたため、信長は増々激怒し扇で光秀の面を散々に打ち据えた。
この後秀吉が密かに光秀に対して
「信長様はむごい人じゃ。我々が骨を折り命懸けで国を攻めとってもこの調子じゃ。讒言のために命を落とさないよう身を大切になされよ」
と言ったため、これにより光秀に邪念が起こった。(三河後風土記)

との書物もありますが、そのようなやり取りは秀吉と光秀の間にしか分からないことであるため真偽のほどは不明です。

まとめ

 秀吉「主犯」説を裏付ける史料や状勢はなく可能性は低いと思います。

 しかし、光秀の不安を煽り疑心暗鬼に陥らせたというのは十分あり得ることではないでしょうか。

 佐久間信盛など重臣であっても追放されたり、荒木村重のように謀反の疑いを掛けられ結果として討伐されるなど、信長家臣の栄達は信長の圧力や恐怖と隣り合わせでした。

 自らは手を汚さず、ライバルである光秀が謀反を起こしてくれれば、光秀が討たれようと信長が討たれようと秀吉にとってはラッキーなことだったに違いありません。

「あわよくば光秀が謀反を起こしてくれれば・・・」by秀吉

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