松平家と安城譜代
石川数正は徳川家の重臣として徳川四天王と並ぶほどの実力者であった戦国時代の武将です。石川家は「安城譜代」と呼ばれる松平家最古参の家臣で、歴代の松平家当主からの信頼も厚い一族でした。「安城譜代」には酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村の7家が挙げられています。
家康人質時代からの重臣数正
数正は家康の幼少期から仕えており、今川義元の人質になった際も付き従った家臣のうちの一人でした。『寛政重修諸家譜』の数正の項には「天文十八年東照宮駿河国におもむかせ給ふのとき供奉の人を選はる。数正其随一なり」との記述があります。
家康が独立したのちも、今川氏真との人質交渉や織田家との同盟などに貢献し、三河一向一揆が起きた際も裏切らず家康に尽くしました。
その後は家老に任じられ、家康の嫡男信康が元服すると、その後見人に指名されています。永禄12年(1569)には西三河の旗頭(武士団を統率する役)となり、「姉川の戦い」、「三方ヶ原の戦い」、「長篠の戦い」など徳川家の多くの戦に参加しました。天正7年(1579)に信康が自刃したのち、岡崎城代になっています。
天正10年(1582)、織田信長が「本能寺の変」で死去し、その後台頭した羽柴秀吉(豊臣秀吉)と家康の間で天正12年(1584)に「小牧・長久手の戦い」が起きます。最終的に和睦が結ばれますが、秀吉との間で奔走したのは数正だったといわれています。
数正の出奔はなぜ?
その数正が天正13年(1585)11月13日、豊臣秀吉のもとに突如出奔しました。
数正が出奔した理由としては諸説あって真相は不明ですが、以下にいわれている説をいくつか挙げます。
・秀吉との外交を担当しているうちに、彼の魅力に取り込まれた。
・秀吉と内通していると疑いをかけられ、徳川家中での立場が悪くなった。
・信康の後見人を務めていたので、信康の切腹後に家康と不仲になった。
・岡崎城派(数正)と浜松城派(家康・酒井忠次)の対立があった。
・数正の父康正が三河一向一揆で家康と敵対して失脚したため、叔父の家成(家康の縁戚)が石川家の嫡流となった。
『当代記』(家康の孫松平忠明が著したといわれている)には「十一月十三日、石川伯耆守・・・・・依兼知如此、特に又為人質三男を秀吉公に指置之間、猶以右之通也」とあり、数正の三男が豊臣秀吉の人質になっていたことが出奔の原因になったのではないかと書かれているようです。
また、1720年頃に成立したといわれている江戸時代の兵法家大道寺友山著の『駿河土産』には、「御家御軍法万事之儀、自今以後武田流に被遊候間、左様相心得候様」とあり、数正の出奔により軍事機密が漏洩することを恐れた家康が、徳川家の軍制を武田流に改めたことが書かれています。
その後の数正とその子孫
数正は秀吉から河内国内で8万石を与えられ、小田原征伐後には信濃国松本10万石に加増移封されています。文禄2年(1593)に死去しますが、死ぬ間際の心境はどのようなものだったのでしょうか。豊臣時代の全盛期だったので、わずか7年後に旧主の家康が天下を取ることになるとは思ってもいなかったでしょう。
数正の跡は長男の康長が継ぎ、関ヶ原の戦いでは東軍についたため、所領は安堵されました(待遇は外様扱い)。しかし、慶長18年(1613)に起きた大久保長安事件に連座(康長の娘が長安の長男藤十郎の正室)して、石川家は改易されます。
この事件では他にも多くの大名や旗本が連座して処分されていますが、数正の出奔事件が石川家の改易と無関係とはどうしても思えません。
もし、数正が家康を裏切らずそのまま徳川家の重臣としていれば、関ヶ原の戦い後、石川家は15万石ほどの大名になっていたでしょう。
おそらく、大久保長安との縁戚関係もなく(譜代大名の重鎮の石川家と大久保長安家では家の格式が違うため)、そうなれば、のちの粛清事件にも連座することはありません。
江戸時代初期に多かった幕閣内の権力闘争に巻き込まれる可能性はありますが、譜代の名門に加えて、家康の人質時代からの功績を考えれば、無事に幕末まで迎えられたのではと思います。
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