執権北条家
北条家は鎌倉時代を通じて幾つもの系統に分かれながら繫栄しましたが、元弘3年(1333)、後醍醐天皇の綸旨に応じて北条氏打倒の兵を挙げた新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め込み、菩提寺の東勝寺において得宗(北条氏の当主)であった高時以下、北条一族郎党870余人が自害したのです。
東勝寺跡(鎌倉市)
この時、高時の子であった邦時と時行が家臣に守られ脱出しましたが、邦時は家臣の裏切りに遭い新田方に捕らえられ、わずか9歳で処刑されています。
もう1人の時行は諏訪に逃れ、その後北条氏再興をかけ戦い続けます(中先代の乱)。一時鎌倉を奪い返すなど勢力を盛り返しましたが、最後は正平8年(1353)捕らえられ処刑されています。
なお、戦国時代の小田原北条氏(後北条氏)とは関係がありません(古い歴史書などには北条時行の子孫北条行長の子が北条早雲としているものもありますが、そもそも早雲は「北条」と名乗っていません・・・)。
畠山重忠の子孫は?
重忠は北条家の謀略によって滅ぼされたため子孫はいませんが、重忠の妻(北条時政の娘)が有力御家人であった足利一族の義純と再婚し、義純が畠山の名跡と旧領を引き継いでいます。
室町時代になると畠山家は足利将軍家の一族として三管領家となり繁栄し、戦国時代になり衰退するも、江戸時代は高家として存続しています。
三浦家
三浦家は、義村の死後その子泰村の代に北条氏との争いに負け、一族与党500余名が頼朝の墓所で自害し滅ぼされています(宝治合戦)。
薩摩島津家の祖は?
薩摩島津家の祖忠久は、比企能員の一族といわれ鎌倉幕府成立時期の有力御家人でした。忠久は源頼朝の落胤との伝説もあり、現在、鎌倉にある頼朝の墓所は、江戸時代に島津家が整備しています。
島津家によって整備された頼朝の墓
(墓石に島津家の家紋が刻まれています)
長州毛利家の祖は?
長州毛利家の祖季光は、鎌倉幕府の立役者として有名な大江広元の4男とされています。ちなみに鎌倉にある広元の墓は、江戸時代に毛利家が整備したものということです。(季光は三浦一族の親戚であり宝治合戦で自害しましたが、越後にいた子供の家系が毛利家を繋げています)
武家政権を樹立した立役者達の子孫が、関東から遠く離れた地で血脈を保ち、700年の時を経て討幕運動の主役として武家政権に終焉をもたらしたことは興味深いですね。
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