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足利将軍家の子孫~喜連川家とは?

 喜連川家は足利尊氏の次男で初代鎌倉公方の足利基氏を祖とし、江戸時代は喜連川藩5000石の領主として存続した家です。今回はその存続の経緯とその後について紹介します。

鎌倉公方の滅亡

 足利基氏は、室町幕府が関東10か国を掌握するために設置された鎌倉府の長(鎌倉公方)として、貞和5年(1349)5月に鎌倉へ下向してきます。

 鎌倉公方は基氏の子孫が代々受け継ぎましたが、次第に独立色を強め、京の室町将軍と対立を深めていったのです。

 そしてついに、永享11年(1439)、4代公方持氏は6代将軍足利義教の追討をうけ、自害して果てることになります(永享の乱)。ここで鎌倉公方は一旦断絶しました。

古河公方と小弓公方

 しかし、文安4年(1447)、持氏の遺児である成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活します。のちに成氏は、またしても幕府と対立し、鎌倉から下総国古河に本拠を移し、初代古河公方となりました(享徳の乱)。

 その後、下総国千葉郡小弓城を本拠とする分家の小弓公方も誕生します。しかし、戦国時代末期には後北条氏や千葉氏との戦いにより、両公方家とも衰亡していました。

 天正18年(1590)、小田原の北条家を滅ぼした豊臣秀吉は、小弓公方足利義明の孫で、未亡人となっていた嶋子を側室にします。その嶋子の願いで秀吉は、嶋子の弟である小弓公方家の足利国朝を古河公方家の足利義氏の娘氏姫の婿とし、古河公方足利家を再興させることとしたのです。

喜連川家としての存続~天下ノ客位

喜連川家の誕生

 再興された古河公方は、喜連川3500石の領主とされました。その後、国朝が急死したため、弟の頼氏が氏姫と再婚します。そして頼氏は「喜連川」の名字を称することになります。

 関ヶ原の戦い時には喜連川家は参加しませんでしたが、戦勝を祝う使者を徳川家康のもとへ送っています。家康は鎌倉公方の後裔である喜連川家を尊重したため、1000石を加増し、4500石(のちに500石加増)としました。そして、10万石格の交代寄合としての家格を与えられました。

『徳川制度史料 』初輯 (柳営行事) より以下を抜粋

独リ喜連川左馬頭ハ無位無官無高ナレドモ、古河公方ノ末孫タル由緒アルニ因リ、幕府ヨリ十万石以上ノ格式ヲ以テ取扱ハレ、下段ノ中央二着座シテ将軍二御礼ヲ為シ、時服ハ白木台二載セテ賜ハル、但公方ノ末孫タルノ礼遇ニヤ、故サラ二御流レノ御土器ハ賜ハラズ

 実際は5000石を領していましたが、鎌倉公方家の後裔として優遇されており、一切の課役を免じられ、公には無高でした。さらに、当主は「御所号」を使用することを許されていました。「御所号」とは藤原氏嫡流である五摂家などにしか許されていない称号で、一介の小大名(1万石以下なので正確には大名ではありませんが)としては、別格の待遇です。

 また、喜連川家は「天下ノ客位」と自称していたそうで、徳川将軍家との明確な主従関係がなく、あくまでも客分扱いの例外的な存在だったといえます。

 平島公方(「足利家の子孫~平島公方」を参照)が蜂須賀家から受けていた扱いとあまりにも違いますね・・・

 余談ですが、晩年の徳川家康が好んでいたとされる「雁殿(鷹狩り)佐渡殿(本多正信)お六殿(養儼院)」のお六殿は家康最寵愛の側室でしたが、家康の死後秀忠の世話で、頼氏と氏姫の長男喜連川義親の継室となっています。

喜連川騒動

 安泰に思えた喜連川家ですが、3代尊信の時に家臣団内部で抗争が起こり、幕府の裁決により、尊信が責任を問われて隠居するという事件(喜連川騒動)が起きます。

以下に『寛政重修諸家譜』の尊信の項を記します。

元和五年下総国鴻巣に生る。寛永七年台徳院殿(徳川秀忠)の命により祖父が遺領を継。時に十二歳。慶安元年尊信が家臣二階堂主膳助某、高四郎左衛門某と争論し、互にその党を結ぶ。三月十八日二人を評定所にめし問る。事決するのうち、四郎左衛門は上田主殿助重秀に、其党一色刑部某、伊賀金右衛門某をば山名主殿矩豊、青木二郎左衛門直澄にめし預らる。のち四郎左衛門言葉屈し雌伏せるにより、十二月二十二日其党二人とともに大嶋に配流せらる。尊信も厳命によりて致仕す。承應二年三月十七日卒す。年三十五。昌山桂公瑞芳院と号す。室は那須左京大夫資景が女。

 一般の外様小大名であれば、これだけの御家騒動を起こせば改易されたことでしょう。特に改易が多かった、江戸時代前期でもありますし・・・

 しかし、当主が隠居させられたとはいえ、禄高を減らされることなく存続できたのは、徳川家と明確な主従関係が存在しなかった喜連川家の特殊な家柄が影響していることは間違いないでしょう。

喜連川家に繋がる武田勝頼の血脈

 尊信の子4代昭氏に男子がいなかったため、足利氏一門で高家の宮原家から氏春を婿養子に迎えて5代の跡を継がせていますが、氏春は武田勝頼の娘貞姫の曾孫にあたります。

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天下一の強弓喜連川茂氏

 氏春の後を継いだ子の6代茂氏は、武田家の血を引くためか?強弓の腕の持ち主であったといわれています。

 おとなしい人で、江戸参府の際も挨拶を済ませるとさっさと喜連川に帰るような人だったため、弓の腕前は家中の者以外誰も知らなかったそうです。

 ところがある時江戸で弓道家が弓具店でかなり大きな弓矢を見かけ、店主に「こんな弓をひく人が世に存在するのか」と問いただすと「喜連川の殿様の物です」と答え、そのことが発端となり腕前が知れ渡ったといいます。

 八代将軍吉宗の耳にも入り、大目付が命を受け茂氏の屋敷に赴き腕前を見聞したところ、軽々と遠くの的を射通して突き抜けさせ、大目付も驚嘆し噂以上の腕前であったと吉宗に報告します。

 吉宗から「さすが名家の子孫であって常々の心掛け神妙である」と喜連川家にお褒めの言葉が伝達されると、噂を聞いた諸大名がこぞって使いを送り交際を求めたため、元々おとなしい茂氏は閉口し喜連川に帰ったといわれています(>_<)

幕末の喜連川家

 幕末の藩主縄氏は、水戸藩主徳川斉昭の11男で、喜連川家に養子として入りました。最後の将軍慶喜の弟にあたります。そして、明治元年に喜連川家は足利に復姓しました。

 明治17年(1884)には、縄氏の長男於菟丸が華族となり、子爵に叙されています。

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