今回は、「小牧・長久手の戦い」がなぜ起きたのか?また、結局どちらが勝ったといえるのか?順をおって背景や戦いの経過を解説していきます。
小牧・長久手の戦いとは?
「小牧・長久手の戦い」とは、天正12年(1584)3月から11月にわたって起きた、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍との戦のことです。この戦は秀吉と家康が直接対決した最初で最後の戦になります。
当初は小牧での両軍の小競り合いが中心で、その後「長久手の戦い」が起きます。尾張国北部を中心に、美濃国や伊勢国などの各地で戦いが発生しました。
なぜ戦いが起きたのか?
「本能寺の変」で織田信長が倒れたのち、羽柴秀吉が「山崎の戦い」で明智光秀、「賤ケ岳の戦い」で柴田勝家、信長の三男織田信孝を滅ぼしていきました。このことから、織田政権の後継者として秀吉が天下人に一番近い位置にいました。
一方、信長の次男信雄は、「清須会議」での信長の遺領配分の結果、尾張・伊賀・南伊勢約100万石の大名となっていました。そして、「賤ケ岳の戦い」では秀吉方に味方し、北伊勢を加増され、信長嫡孫の三法師の後見役として安土城に入るなど、秀吉と良好な関係を築いていました。
しかし、間もなく秀吉が信雄を安土城から追い出したことから、両者の関係が悪化します。秀吉としては、三法師の近くに信雄がいるのが邪魔だったのでしょう・・・
もともと家来筋の秀吉に織田家を乗っ取られる危機感を抱いた信雄は、自分の力だけでは対抗できないと考え、徳川家康と同盟関係を結びます。この信雄からの同盟要請は、家康にとっても、自らの勢力を拡大する絶好の機会でした。
天正12年(1584)3月、信雄は秀吉に内通したという流言を信じて、自身の家老3名を処刑します。これを口実に、秀吉は信雄に対して出兵したのです。そして、信雄・家康も挙兵し、「小牧・長久手の戦い」へと発展していきました。
両軍の陣営
戦いの経過
3月13日:家康、信雄の居城である清洲城に入城
3月13日:秀吉軍に寝返った大垣城主池田恒興が、犬山城を奇襲して占拠
3月17日:森長可、羽黒に秀吉方として布陣
3月17日:家康軍、羽黒へ進出し、森長可に勝利をおさめる
3月21日:秀吉、大坂を出発
3月27日:秀吉、犬山城に入城
3月28日:家康、小牧山城に入城
3月29日:信雄、小牧山城に入城
4月6日:秀吉軍の岡崎侵攻隊(羽柴秀次・堀秀政・池田恒興・森長可)、岡崎方面への進軍を開始する
4月9日:長久手の戦い勃発、池田恒興・池田元助・森長可が戦死
信雄側にとって誤算だったのは、池田恒興・森長可が秀吉側に寝返ったことでしょう。恒興は信長の乳兄弟、長可は信長の小姓で「本能寺の変」で最後まで付き従った森蘭丸の兄です。秀吉の力が強いというだけでなく、よほど信雄に人望が無かったと思われます・・・
3月27日には大坂から秀吉が大軍を引き連れて犬山に到着し、両軍睨みあいの状況になりました。この時、秀吉軍は約100,000人(約60,000人の説あり)、織田・徳川連合軍は30,000人(約16,000人の説あり)ほどの兵力だったといわれています。両軍はお互いに相手の出方をうかがい、挑発や小競り合い状態におちいりました。
4月4日、膠着状況を打破するべく、池田恒興が秀吉に家康の本拠地である三河の岡崎城を攻撃するという提案を持ちかけ、秀吉はこの作戦を承認します。
4月6日の夜、秀吉軍は羽柴秀次を大将とする岡崎侵攻隊を編成し、ひそかに兵を岡崎方面に向けて出立させます。第一隊池田恒興5,000人、第二隊森長可3,000人、第三隊堀秀政3,000人、第四隊羽柴秀次9,000人です。しかし、この動きは家康方の間者によって察知されており、家康は9,000の兵を二分し、羽柴軍を攻撃しました。
まさかの奇襲に羽柴軍は、池田親子、森が討死し、秀次は命からがら犬山城に潰走するという壊滅的な打撃を受けました。この日の戦いにおける羽柴軍の死者は約2,500人、織田徳川軍の死者は約590人といわれています。これを「長久手の戦い」といいます。
同じころ、秀吉は約30,000の兵で小牧山に攻撃を仕掛けていますが、わずか500人の本多忠勝隊に行軍を妨害されています。その後、長久手の敗報を受けて秀吉軍は退却しています。
講和
池田恒興、森長可を討ち取り、秀吉軍に多大な打撃を与えた家康ですが、この後思わぬ事態が発生します。なんと、信雄が秀吉側への伊賀国と伊勢半国の割譲を条件に、単独で和睦を結んでしまったのです・・・
秀吉は主戦場を伊勢にうつして信雄方の城を落としていったので、それに耐えれなくなったのでしょう。
もともと信雄を助けるために参戦していた家康は、大義名分を失ったので、三河国に仕方なく撤退します。こうして、「小牧・長久手の戦い」は停戦となりました。
その後、秀吉は使者を浜松城へ送り、家康との間に講和を取り付けようとします。
家康は返礼として次男於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送り、こうしては「小牧・長久手の戦い」は終わりをつげます。
家康・信雄のその後
この戦いのあとも、家康は秀吉に従わなかったため、天正14年(1586)、秀吉は、自身の妹の朝日姫を家康に嫁がせます。すでに夫がいたにもかかわらず、強引に離縁させたのです。
朝日姫は家康の正室となりましたが、秀吉に臣従はしませんでした。そこで秀吉は、今度は母大政所を人質として送り出したのです。これにより、さすがに家康も大坂城へ赴いて臣下となることを承諾しました。
また、領地を削られた信雄でしたが、「小田原征伐」後に家康旧領5か国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)への加増転封を秀吉より命じられました。しかし、それを断ったため改易され、流罪となってしまいます。
結局どちらが勝ったの?
「小牧・長久手の戦い」は、戦術的には戦闘に勝利した家康の勝ち、戦略的には秀吉の勝利とよくいわれています。たしかに、その後母を人質にまで出しても、天下人となったのは秀吉ですので、それは間違いないでしょう。
しかし、家康を滅ぼせなかったどころか、領地を削ることも出来ず、最終的に関東250万石もの大領を与えざるを得なかったところに、秀吉の家康に対する限界がありました。
そして、戦術的に勝った家康に秀吉が最大限に譲歩してやっと臣従させることが出来たという事実が残りました。このことで名声を得た家康のもとに自然と人が集まり、秀吉死後の「関ヶ原の戦い」での勝利につながっていきます。
そこまで長期にわたってみた場合は、戦略的にも家康の勝ちといえるのではないでしょうか。
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