前回は室町時代の土一揆(徳政一揆)について紹介しましたが、今回は「国一揆」について紹介します。
国一揆とは?
「徳政一揆」が借金の帳消しを求めて蜂起したものに対して、「国一揆」は守護等支配階級の武士を追い出すことによる住民自治を目指した一揆です。後に頻発する一向一揆も国一揆の類だといえます。
播磨の土一揆~国一揆の始まり
「正長の土一揆」が起こった翌年の永享元年(1429)正月、播磨の農民たちも一斉に立ち上がります。国中の侍をそろって攻撃し、各荘園の代官(地侍)だけでなく守護方の軍兵も討ち果たしたり追い払ったりするに至ります。
農民たちは「侍どもを国から追い出す」といって暴れまわり、守護の赤松満祐が京都から出陣しようやく鎮圧しますが、「一国の騒動稀代」といわれ、国一揆の始まりといわれています。(薩戒記)
播磨の土一揆は徳政の要求ではなく守護赤松家の家臣を国外に追放するという政治的要求を主としており、徳政一揆とは性格が異なったのです。
山城の国一揆
応仁の乱終結以降も、畠山家では畠山政長(尾州家)、義就(総州家)義兄弟の対立は続き、文明17年(1485)には両者が南山城で戦闘状態に入ります。
両陣の対立が3カ月に及ぶに至り、戦乱により被災した民衆が立ち上がったのです。15,6歳から60歳までの国人が集まって畠山家への対応を話し合い、また、国中の土民(農民)たちも群集したといいます。
一揆勢は両畠山陣営に山城国外への退去を求め、両陣営も要求に従って陣を引き払ったのです。
その後、36人衆と呼ばれた南山城の国人たちが民衆の支持を受けて政治を行い、独自の法である「国掟」を定め、集会を開いて重要事項を決定したほか、「月行事」と呼ばれる日常雑務を処理する役職を設置するなど、明応2年(1493)に幕府の支配を受け入れるまでの8年間、国人たちによる自治的支配が行われたのでした。
加賀の一向一揆
本願寺の蓮如の布教により広まった浄土真宗本願寺派の勢力を背景に起こった国一揆を「一向一揆」と呼びます。
文明の一向一揆
文明6年(1474)、加賀の一向宗信者らが一揆を起こしました。当時の加賀守護富樫家では、応仁の乱で富樫政親、幸千代の兄弟が対立しており、政親が一向宗側と結んで幸千代を倒すことに成功するのです。
この時の戦いでは、一向宗側2000人が殺されるも、一向宗により守護代小杉氏が討たれ、国中の侍が追い払われたともいわれます。
一時的に手を組んだ一向宗と政親でしたが、元々の目的が異なりますのでやがて政親が一向宗を弾圧するようになり、対立関係に移っていきます。
長享の一向一揆
長享2年(1488)、ついに一向宗は20万人ともいわれる大軍で富樫政親の居城高尾城(現石川県金沢市)を包囲します。越前守護の朝倉軍が応援に向かいますが、大軍を前に落城し、政親の一族はことごとく討ち果たされたのでした。
その後、一向宗は政親の大叔父に当たる富樫泰高を名目上の守護に据えて、一向宗が実質的に支配する国となり、「百姓ノ持タル国」とまで呼ばれるようになったのです。
京の寺院の記録では、
とされています。
この支配は天正8年(1580)に織田信長に制圧されるまで、およそ100年もの間続きました。
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