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村上水軍のその後~海賊たちはどうなった?

 中世に芸予諸島付近の瀬戸内海で猛威を振るった村上水軍(村上海賊)は、江戸時代へ移った後どうなったのでしょうか?

 その多くがそのまま農漁民として地元で血脈を繋いだのですが、今回は頭領であった村上家にスポットを当てて紹介します。

海賊の終焉とそれぞれの道

 村上水軍は来島村上家、能島村上家、因島村上家の三家に分かれていましたが、来島村上家は、天正10年(1582)の織田軍の毛利攻めの際に秀吉に臣従したことで、伊予国来島(現愛媛県今治市)に1万4千石を与えられて独立大名として認められています。

 天正16年(1588)に豊臣秀吉が海賊禁止令を出すと、各地の海賊は大名の家臣となるか、農漁民化するかなどして海賊からの転向を余儀なくされ、村上水軍の残る2家の能島村上家と因島村上家は元々付いていた小早川家・毛利家に従属することとなりましたが、その際本拠地であった島の砦などは破却させられたといいます。

 一方、独立大名となっていた来島村上家はそのまま大名として存続しますが、当主来島通総は慶長2年(1597)に朝鮮出兵中の海戦で戦死しており、その後は子の来島康親が跡を継いでいます。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、能島村上家と因島村上家は毛利軍として河野旧臣らとともに、関ヶ原本戦に参加する加藤嘉明不在の伊予を攻めますが、逆に敗れ、能島村上家の頭領村上元吉は討死してしまいます。

 大名だった来島家も毛利家との関係上同じ西軍に属していたため、戦後改易されてしまいます。

 しかし、来島家は親族関係にあった福島正則らの取りなしで、翌慶長6年に豊後森(大分県玖珠)に旧領と同じ1万4千石を与えられ(森藩)、存続に成功します。なお、領地は内陸部であり海から遠ざけられてしまったのです。特殊技能を持つ勢力を封じる幕府の政策であったとも・・・

 一方、能島村上家と因島村上家は、毛利家に家臣として仕え、特に能島村上家は毛利一族に次ぐ重臣家である「寄組」となり、三田尻(現山口県防府市)を拠点とする長州藩船手組頭として海との関わりを保ちながら存続することとなります。

森藩の悲劇とその後の久留島家

 海から遠ざけられてしまった来島家の森藩でしたが、豊後日出に飛地領の港を与えられ、参勤交代は瀬戸内海を船で航行することでかろうじて海との繋がりを保つことになります。しかし、寛文3年(1663)に悲劇が起きます。

 3代藩主久留島(2代藩主の代に久留島に改名)通清一行が参勤交代のため豊後日出から瀬戸内海を船で江戸に向かう途中、周防国(現山口県)屋代島沖で大時化に遭い通清の弟通方ら11名の乗る船が磯の岩に激突し、通方ら全員が溺死してしまったのです。

 皮肉にも、村上水軍として縦横無尽に暴れまわっていた庭のような海での悲劇で、水軍としての栄光は過去のものとなっていたのでした。

 その後の久留島家は移封されることなく幕末まで森藩主として続き、明治維新の際はいち早く新政府側に与して、後に子爵となっています。

 なお、海賊ならではの村上水軍埋蔵金伝説もありますが、村上水軍は滅亡したわけでなくそれぞれの道で存続しているので埋蔵金が隠されたままということはないでしょう(^_^)

 2016年には、村上海賊関連の史跡等が、「”日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊”Murakami KAIZOKU”の記憶-」として日本遺産に登録されています。

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