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酒井忠次~徳川四天王筆頭

 酒井忠次は、大栄7年(1527)の生まれで家康より15歳年長であり、家康の義理の叔父に当たります(忠次の妻は家康の祖父清康の娘)。

 家康の今川人質時代から苦楽を共にしており、軍事・政治ともに抜群の手腕を発揮し家康から信頼され、徳川四天王の筆頭といわれています。

鳶巣山の夜襲~長篠の戦い

 長篠の戦いの前日、軍議の場で織田信長から意見を求められた忠次は、武田勝頼の背後を突くべく鳶巣山砦の敵に夜襲をかけるべきとの意見を出しました。

 しかし信長は、
「一大決戦を前に児戯に等しいような小賢しい戦いは無用」
と一笑に付します。

 恥をかかされた忠次でしたが、軍議の後に信長から呼び出されると、
「軍議の場で取り上げなかったのは夜襲の情報が漏れるのを防ぐためで見事な作戦」
と褒められ、忠次は夜襲の先手を命じられたのです。

 忠次もそれに応えて見事に夜襲を成功させ守将の武田信実(信玄の弟)を打ち取り鳶巣山砦を落とします。このことで背後を脅かされた武田軍は、不利な状況でも戦いに臨まざるを得なくなり、長篠の戦いの惨敗に繋がったといわれます。

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築山殿事件~謎の事件と忠次

 家康との関係に大きなひびが入ったのが築山殿事件です。

 家康の長男信康は織田信長の娘徳姫を妻にしていましたが、夫婦仲は悪く、また、姑である築山殿(家康の妻)との仲も最悪でした(「家康の妻たち」の項参照)

 徳姫は信長に二人の悪事を並べる手紙を書きましたが、その中には二人が武田と内通しているとの話まであったのです。

 激怒した信長に対して弁明に赴いたのが忠次でしたが、忠次は何も弁明することができず、結局信康は切腹に追い込まれて築山殿も殺すことになったのでした。

 後年、忠次は隠居し息子の家次に家督を譲っていましたが、家康の関東入府の際、他の重臣家は10万石以上を与えられたにもかかわらず、家次には3万石のみだったのです。

 忠次が家康に息子のことを頼むと、家康は
「お前でも息子のことが可愛いのか」
と冷たく言い放ったといいます。

 家康は忠次が信康のことを救えなかったことをずっと根に持っていたとも・・・

 ただ、事件の背景には浜松(家康)派と岡崎(信康)派の対立があったともいわれており、真相は闇の中です。

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酒井忠次の子孫~酒井家のその後

 関ヶ原の戦い後に5万石、家康死後の1616年に10万石に加増されるなど(やはり存命中は難しかったのでしょうか)加増も続き、最終的に出羽庄内14万石となります。

   石高が比較的少ない譜代大名としてはかなりの高禄です。
5代藩主忠寄は老中を勤めています。

 幕末は庄内藩主として旧幕府側である奥羽越列藩同盟の一翼を担いました。

 旧幕府側が次々と官軍に敗北する中、庄内藩は無類の強さを誇り散々に官軍を打ち破り苦しめましたが、周囲の藩が全て降伏してしまったため、やむなく抵抗をやめ降伏しました。

 領民からの慕われており、戊辰戦争後に庄内から酒井家が移封されそうになった時は、領民上げて新政府に献金を行い移封を止めています。


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