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松平清康の森山崩れ~勘違いで家臣に斬殺された家康の祖父

 徳川家康の祖父松平清康の最期、いわゆる「森山崩れ」について紹介します。

 松平清康は文武両備の勇将で、若いながら家臣からの信頼も厚かったといわれています。

 今川、織田と両勢力に挟まれながら三河統一を成し遂げようとしていたときに悲劇が起こります。

森山崩れ

 天文4年(1535)、清康25歳の時、織田信秀(信長の父)との戦いのため尾張に陣を取りました。その頃家中では、重臣の阿部大蔵(定吉)という者が織田方に内通しているとの噂が立ちました。

 大蔵にとっては全く心当たりのないことで、息子の弥七郎(正豊)に対して起請文を渡し、
「もし私が誅殺されたらこれを提出して無実であると明らかにし、それでも疑いが晴れない場合はお前も潔く自害しろ」
と言い含めました。

 その後、清康の本陣近くで一頭の馬が暴走し騒ぎになった際、弥七郎は父が殺されたものと勘違いし、本陣に駆け付け清康に斬りかかり殺してしまったのです。

 弥七郎もその場で清康近臣の植村氏明(高取藩主植村家の祖:湘南乃風SHOCK EYEさんの先祖)に斬り倒されます。

 主君と共に息子弥七郎まで失った大蔵でしたが、その後はまだ10歳の清康の嫡男広忠(家康の父)に仕え、混乱の中三河から追われ流浪した広忠を守り忠義を全うしています。

妖刀村正

 清康殺害に弥七郎が使用した刀が「村正」で、後年広忠を殺害(一説)したりしたのも「村正」であったことから、徳川家に不吉な刀として忌み嫌われたとの伝説がありますが、事実であったとしても当時村正は広く用いられており、偶然が重なったのが真実のようです。


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