PR

佐久間信盛~織田家重臣の追放劇

 佐久間信盛は織田家の重臣中の重臣として活躍した戦国時代の武将です。織田家に約30年間仕えていましたが、突如として信長から高野山へ追放されます。ここでは、追放時に信長が信盛に送った折檻状についてみていこうと思います。

織田家重臣佐久間信盛

 佐久間家は、尾張国の有力な国人領主で、信盛は信長の父信秀の代から織田家に仕えていました。元々は織田家と同等の力を持っており、初期の信長家臣団の中でも佐久間家の動員兵力は群を抜いていたといわれています。

 桶狭間の戦いをはじめとした織田家の主な戦いに参戦しており、のちに尾張・三河・近江等7か国の与力を付けられ、織田家家中において信盛の軍団は最大規模をほこりました。

 そして、信盛は軍団を率いて石山本願寺攻めの大将を命じられますが、5年経っても攻略することができなかったことから信長に責任を追及されることとなったのです。

信長から信盛に送られた折檻状~追放の理由とは?

 信盛は、信長から19箇条に及ぶ折檻状を突き付けられることになります。

 『信長公記』巻十三「佐久間・林佐渡・丹羽右近・伊賀伊賀守事」の項に折檻状19箇条についての記述があります。

 林佐渡(林秀貞)は、信盛と同じく信秀の代から織田家に仕えていた重臣中の重臣です。丹羽右近(丹羽氏勝)は元々信長の叔父信次に仕えており、のちに信長の家臣となっています。伊賀伊賀守(安藤守就)は斎藤家に仕えていましたが、信長の美濃侵攻時に内応し織田家の家臣となりました。この3人も遠国へ追放したと書かれています。

 それでは、折檻状19箇条の中から以下の3つを抜粋してみてみます。

1、小河かり屋跡職申付候処、従先々人数も可在之と思候処、其廉もなく、剰先方之者共をは、多分追出然といへども、其跡目を求置候へハ、各同前事候に、一人も不拘候時ハ、蔵納とりこみ金銀になし候事、言語道断題目事

【要約】 水野信元(小河は水野家の出身地)死後の刈谷を与えたのに、家臣も増やさず、その上水野の旧臣を追放してしまった。1人も家臣を召し抱えていないし、水野の旧臣の知行を信盛自身の領地とし、その収入を金銀に換えているということは言語道断である。

2、先年朝倉破軍之刻、見合曲事と申処、迷惑を不存結句身ふいちやうを申、剰座敷を立破事時にあたつて信長面目を失共、口程もなく永々此面に有之比興之働、前代未聞事

【要約】 先年、朝倉軍を破ったとき、戦の仕方を叱ったところ、恐縮もせず、自分の正当性を吹聴し、それどころか席を蹴って立ち去ってしまった。これによって信長は面目を失った。それなのにここ(大坂天王寺)では在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。

3、一世之内、不失勝利之処、先年遠江へ人数遣候刻、互勝負有つる、無紛候然といふとも、家康使をも有々条をくれの上にも、兄弟を討死させ、又は、可然内者打死させ候へば、其身依時之仕合遁候かと、人も不審を可立つに、一人も不殺、剰平手を捨ころし、世に有ける面をむけ候儀、以爰、条々無分別之通り、不可有紛事
【要約】 三方ヶ原の戦いの時、戦に敗れるのは仕方ないが、家康からの応援要請があったのにも関わらず、援軍としての役割を果たしていない。兄弟や身内が戦死するほど戦ったなら、他人も仕方ないと思うだろう。しかし、信盛の軍勢からは一人も死者を出していない上に、平手を見殺しにして平然としている。

 上記の3つをみると、信長は信盛に対して、欲深くて卑劣で同僚を見殺しにしても平気な男、というようなことを言ったことがわかります。

 1番目に出てくる水野信元は信盛の讒言によって誅殺されたといわれる人物です(真相は不明)。讒言には触れていませんが、自分の利益だけを追求し強欲だと信盛のことを言っています。

 2番目の朝倉攻めは天正元年(1573)のことなので、これを書いた時から9年も前の話です。信長の執念深さがわかりますね。

 3番目の三方ヶ原の戦いに出てくる平手とは、平手汎秀のことで、信長の守役として有名な平手政秀の孫(もしくは子)にあたります。年齢差が61もあるので、孫ではないでしょうか。政秀は若い時の信長の行状を諫めるために切腹しており、その死を憐れんだ信長は政秀寺を建立して菩提を弔っています。そういう経緯があるので、孫である汎秀のことを気にかけていたと思います。

 また、政秀の娘は信長の弟長益(有楽斎)の正室となっています。この汎秀を見殺しにしたと信長に思われたということは、かなりのマイナスポイントだったのではないでしょうか。

 以上、折檻状から3つだけをみてみましたが、これだけでも信盛に対する信長の怒りが充分なほどわかります。ただし、一見非情にもみえますが、信盛にもそれなりに問題があったのではと思います。

その後の信盛と子孫

 信盛は流された高野山で、天正10年(1582)1月に死去しますが、長男の信栄は父の死後すぐに赦免されて、信長の嫡男信忠に仕えています。そして、信盛の子孫は、江戸時代には旗本となり幕末まで存続しています。

 ちなみに、信栄(正勝)の娘は、信長の九男信貞の子、織田貞置(高家旗本)に嫁いでいますので、信長と信盛は孫同士が結婚していることになります(^_^)

丹羽長秀の最期とその後の子孫
織田信長の宿老であった丹羽長秀の衝撃の最期とは!?・・・丹羽家のその後、幕末の悲劇まであわせて紹介します。
織田信長の恐怖エピソード
織田信長の恐ろしいエピソードをいくつか紹介します((((;゚Д゚))))
「本能寺の変」の原因~光秀は家康接待で本当に信長に折檻されたのか?
本能寺の変の直前、明智光秀が徳川家康の接待役を務めた時に腐った魚を料理に出したことで、信長から激しい折檻を受けてそれを恨んでいたという説がありますが・・・・
「本能寺の変」の原因~秀吉黒幕説についての考察
「本能寺の変」の黒幕は秀吉?今回は本能寺の変秀吉黒幕説が囁かれる理由について考察してみたいと思います。