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真田信之の晩年~松代藩主真田家の跡目相続争い

知勇兼備の武将~真田信之

 真田信之(信幸)は、真田昌幸の長男で、信繁(幸村)の兄として有名な武将です。平成28年(2016)のNHK大河ドラマ『真田丸』では、俳優の大泉洋さんが信之役を演じられました。

 同役を演じた俳優としては、昭和60年(1985)のNHK大型時代劇『真田太平記』での故渡瀬恒彦さんも有名ですね。信之といえば、渡瀬恒彦さんを思い浮かべる方もおられるのではないでしょうか?

 信之は知勇兼備の武将といわれており、天正13年(1585)、第一次上田合戦では、父昌幸とともに徳川軍と戦い、勝利に貢献しています。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、父・弟と別れて東軍(徳川方)につき、合戦後、父・弟の助命を嘆願し、戦功によって許されました。

 そして、これまでの所領である上野国沼田2万8千石と父の旧領3万7千石に3万石を加増され、計9万5千石を領し上田城を居城とします。元和8年(1622)には、信濃国松代に13万石で加増移封されることになります。

 信之は万治元年(1658)10月、当時としてはかなり高齢な93歳で亡くなります。しかし、長寿であったことで、自身の孫と藩主の跡目相続問題で争うことになるのです。

 ここでは、信之の最晩年に起きた松代藩主跡目相続争いを紹介します。

長寿信之の跡目相続争い

 明暦元年(1656)、91歳の信之は次男の信政に家督を譲って隠居します。長男の信吉、信吉の長男熊之助はすでに亡くなっていました。

 信政は家督を継いだ時にはすでに60歳になっていました・・・普通ならば60歳は隠居している年です。この年齢になってようやく家督を継げたのです・・・・このことから、信政はなかなか隠居しなかった信之を恨んでいたといわれています。

 信之としても早く隠居したかったのですが、戦国時代を知る最後の大名であった信之の隠居を惜しみ、幕府が許可を出さなかったとか・・・どちらにしても息子から恨まれるとは可哀想な晩年です・・・

 そして、ようやく跡を継いで2代藩主となった信政が、わずか2年後の万治元年(1658)2月に亡くなったことから、後継者争いが勃発することになります。

 同年6月、信之の意思により、信政の六男幸道が2歳で家督を継ぎ、幕府に届け出ます。しかし、これに異を唱えた人物がいました・・・・信吉の次男で沼田城主であった信利(信直)です。

 信利は自分が信之の長男信吉の子であるため、「真田家の嫡流は自分である」と幕府に訴え、幸道の相続撤回を求めます。信利としても藩主になるか家臣の列に加わるかでは、その後の境遇が全く違うので簡単に認めるわけにはいかなかったのでしょう。言っていることは当然といえば、当然なことかもしれません・・・

 信利は、正室の実家の土佐藩山内家や老中酒井忠清を後ろ盾につけて、信之と争う姿勢をみせますが、最終的には幕府の決定により幸道が相続することになりました。

 たしかに順当に考えれば、長男の系統である信利に分がありますが、そこには信之の正室の子孫であるか、側室の子孫であるかが関係していたと思われます。もともと信之の正室は伯父信綱の娘(清音院)でしたが、のちに本多忠勝の娘小松姫を迎えるにあたって、清音院は側室に降格されたといわれています。

 清音院との子が信吉で、小松姫との子が信政です。この両者の跡継ぎ問題は信吉が早くに亡くなったため、あいまいな形で次世代に残ったのではないかと思います。
幕府としても、徳川四天王の一人本多忠勝の子孫を当然優遇するでしょう。

 ただし、幕府も信利に気を遣ったのか、沼田領3万石を松代藩から独立させ、信利は正式な大名となりました。この信利はいろいろ問題があった人らしく、沼田藩3万石は約20年後に改易されますが・・・・

 松代藩主となった幸道はまだ2歳なので、藩の運営が出来るはずもなく、信之が後見することになります。

 そして、数か月後に93歳で亡くなるのです。亡くなる寸前まで真田家の存続のために働き、息子(信政)からは恨まれるなど、あまり穏やかな晩年を送れたとはいえないのかもしれません。

 信之の長年に渡る努力で生き残った真田家は、江戸時代を通じて松代10万石の藩主として存続し、無事に明治維新を迎え、華族令施行時に子爵(のちに伯爵)となっています。

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