もし信玄が死ななかったら
もし武田信玄が西上作戦途中に死なずにそのまま軍を進めていたらどうなったでしょう。また信玄は信長との決戦を望んでいたのでしょうか。
史実では、信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河国の野田城を落城させた直後に病状が悪化して、甲斐に引き返す途中に亡くなっています。
信長との初戦は信玄の勝利?
もしもこの時、信玄が健康でそのまま進軍していたらどうなったでしょう。おそらく、その後も三河国の各城を落とし、尾張と三河の国境付近で織田軍と戦闘状態に入ると思われます。当時の信長は四方を敵に囲まれて、割ける兵力に限りがあったので、初戦では信玄が勝つ可能性が高いです。
しかし、戦闘に勝っても城を落として領土化しなければ、あまり意味がありません。当然、信玄は尾張平定を早急に行う必要がありますが、織田方は各城に立て籠もって抵抗するでしょう。そうこうしているうちに、各地からの応援部隊が到着して、信長は反撃に転じると思います。一度の戦に負けても財政基盤を確立している信長には可能です。
それに対し武田家の財政は、長期遠征や天災に見舞われていたこともあり、決して豊かとはいえませんでした。もし一度でも大敗したら、相当なダメージを負うことになります。
さらに、信長が野戦に応じず最初から城に立て籠った場合、状況はさらに悪化します。武田家は農民兵なので、農繁期には甲斐に帰らなければなりません。上杉謙信が北信濃に出兵してくることも考えられます。また、敗れたとはいえ浜松城にいる家康の動向も気になります。
信玄と信長の戦いの決着は?
武田家が長期的にみて織田家と対抗できるためには、三方ヶ原の戦い後に家康が籠った浜松城を落とすか、家康が降伏して武田家に従属し、三河まで完全に武田家の支配下に置く必要があったと思います。この状況でようやく信長と対等に渡りあえる力関係になるかと、、
しかし、実際に家康は降伏していませんし、浜松城攻めも行っていません。家康を降伏させないままで信長と決戦して勝利するのはかなり困難です。
その状況では、信玄は尾張侵攻などは考えていなかったのではないでしょうか。少しでも多くの三河と遠江の国人を服属させて領土を拡大し、家康を追い詰められればよしとしたのではないかと、、
三方ヶ原の戦い時点での武田家と織田家の石高(太閤検地時の石高を参考)を比較してみると、武田家の石高は約120万石で、織田家は約330万石です。したがって動員兵力は武田家が約3万6千、織田家が約10万と3倍近くの開きがあります(100石で3人の計算の場合)。
これはなかなか大きな開きです。信玄はたしかに戦が強く、生涯ほとんど負けていませんが、ひとつの城を落とすのにかなり慎重に時間をかけて攻略しています。体調を崩していたとはいえ、野田城を落とすのにも1か月かけていますし、、
信長が尾張美濃の2か国の大名だった永禄10年(1567)時点での国力差であれば、もし戦ったら信玄が勝った可能性もあります。(当時の石高は武田家が約90万石、織田家が約110万石)
しかし、その後6年間で織田家は急成長し、領土が3倍になっているのに比べ、武田家は30万石しか増えていません。
信玄は父信虎を追放し武田家の当主になった時点で、すでに甲斐一国が完全に支配下にありました。信虎が一族や国衆の反乱を平定して甲斐守護職としての地位を確立していたからです。
それから信濃の小大名を滅ぼしていきますが、信濃を平定するのに約20年間かかっています。義元死去後の弱体化した駿河の今川家や西上野にも進出し、支配下に治めますが、周囲を上杉家や北条家などの強力な戦国大名に囲まれていたこともあって、なかなか完全に領土化するのが厳しい状況でした。
それでも武田家の周囲の戦国大名と比べれば、決して領土拡大スピードは遅くありません。着実に増えていますし、、
ただ信長の侵略スピードが信玄の想像をはるかに超えていました。そして、いざ信長と対決する時点での国力差はあまりにも大きいものでした。さらに決戦をしなかった場合は、時が経てば経つほどその差は広がる一方です。
結論を言えば、信玄は長生きしても信長に勝つことは出来なかったと思います。跡を継いだ勝頼の最後にみられたような内部崩壊的なことが起きたとは思えませんが、結局はタイミングをみて信長と和睦し、地方の戦国大名として生き残るしか道は残されていないかと、、信長が和睦に応じてくれればですが、、( ;∀;)
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