今回は、元皇太子でありながら天竺を目指し、最期は虎害に遭ったともいわれる高丘(高岳)親王の生涯について紹介します。
誕生と立太子
高丘親王は、平城(へいぜい)天皇の第三皇子として、延暦18年(799)に誕生しました。(一説には延暦12年)平城天皇は桓武天皇の皇子ですので、桓武天皇の孫に当たります。
母は正四位下だった普通の役人の娘で、高い身分の人ではありませんでした。
大同(だいどう)4年(809)4月に父・平城天皇が病気のため在位僅か3年で弟の嵯峨天皇に譲位すると、高丘親王は11歳で叔父である嵯峨天皇の皇太子に立てられます。
譲位した父の平城上皇は旧都である平城京に移り住みました。
薬子の変(くすこのへん)(平城太上天皇の変)
しかし、弘仁元年(810)、平城上皇が天皇への復位と平城京への再遷都を図って弟の嵯峨天皇と対立してしまいます。
この対立は嵯峨天皇側が迅速に兵を動かして勝利します。東国へ向かい挙兵しようとして失敗した平城上皇は出家、平城上皇の愛妾藤原薬子は服毒自殺し、その兄である藤原仲成は射殺されました。
「薬子の変」として知られる事件ですが、これは平城上皇に憚ってそう称されるようになったもので、近年は「平城太上天皇の変」とも呼ばれるようになっています。
まだ幼い高丘親王が変に関係していたとは考えられませんが、結果としてこの変により、弘仁元年9月、廃太子となってしまったのでした。皇子はこの時12歳で、皇太子であったのはわずか18カ月の間でした。
出家~空海の弟子へ
弘仁13年(822)、高丘親王24歳のときに四品に叙せられ名誉回復がなされましたが、親王はその年に出家します。
なお、高丘親王には善淵(よしふち)、安貞の二皇子がいましたが、二人は後に在原姓を賜り臣籍に降下しています。ちなみに有名な在原業平は高丘親王の異母兄阿保(あぼ)親王の子ですので、甥に当たります。
高丘親王は出家後真如と名乗り、奈良の寺で幾人かの師について修行を始めますが、やがて空海(弘法大師)の弟子となります。
親王は空海のもとで真言密教の修行に励み、ついには空海の十大弟子の一人に数えられるようになったのです。
また、親王は高野山に親王院も開いています。
承和2年(835)に空海が入定(にゅうじょう:永遠の瞑想に入る)すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会います。
なお、空海が入定する前に、親王が師の姿を写し描き残した肖像画は今に伝えられています。
大仏修繕の指揮
その後、静かに修行に努めていた親王ですが、文徳天皇の斉衡(さいこう)2年(855)、東大寺大仏の頭が転がり落ちてしまう事件が起こります。これは地震のためといわれています。
親王は勅命により東大寺大仏を修理する検校に任じられ、清和天皇の貞観(じょうがん)3年(861)3月までの6年間、心血を注いで修理の指揮を執り大事業を成し遂げたのです。修繕完成の大法会には数千人の僧が集まったとされています。
大仏修繕の大事業を終えると、親王は朝廷に願い出て、3カ月間南海道を巡る旅に出て、土佐などを訪れたといわれています。
唐・天竺へ
親王はその後すぐ、さらに仏教を極めるため、唐に渡ることを朝廷に願い出ます。師空海のいない日本を出て、唐に優れた高僧名師を求めることとしたのです。
そして貞観3年(861)7月に親王らの一行23人は盛大な見送りを受けて奈良を発ち、8月に九州に入り、10月から唐に渡る船の建造を始めます。
翌貞観4年(862)5月に船が完成すると、同年9月にいよいよ出航したのです。
唐への渡海は、当時のことですから、嵐により沈没したり漂流したりすることも多く文字通り命懸けの危険な船旅で、親王の航海も荒れたものでしたが、何とか無事に明州(現在の寧波)に到着したのです。
この地でしばらく滞留し、長安への入京の許可を求めましたが、翌貞観5年(863)に許可が下り、貞観6年(864)5月に長安に到着したのです。
長安において親王は、日本からの留学僧の案内のもと数々の寺を回り、高僧たちに種々難問を出して尋ねても、納得のいく答えを得ることができません。
当時の唐は皇帝武宗(ぶそう)の仏教弾圧政策の影響により仏教は衰退の状態にあったとされ、親王は長安で優れた師を得ることはできなかったのです。
親王は、「唐には師(弘法大師)に優る師、東大寺に優る寺は存在しなかった」と日本へ書き送ったとされています。
このため親王はさらに求法のため、天竺(インド)行きを決意したのです。しかし天竺への旅は、日本から唐へと渡るよりも更に危険で困難なものでした。三蔵法師として知られる玄奘の天竺行きも唐時代のことでした。
67歳になっていた親王は、貞観7年(865)、唐皇帝の許しを得て、従者3人と共に広州より海路により天竺を目指し出発しましたが、その後の消息が途絶えてしまったのです。
親王の子在原善淵は大和守など、安貞は摂津守などの地方官を勤めていましたが、行方不明になった父親王が朝廷から受けていた領地をそのままにしておくのは申し訳ないと返納を申し出ます。
しかし清和天皇は、親王の生死が分からぬのであるからしばらく待てと御許しにはならなかったのです。
結局元慶(がんぎょう)3年(879)になってようやく返上が認めらます。
そして親王の行方が分からなくなって16年後の元慶(がんぎょう)5年(881)、在唐の留学僧らの報告において、親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去(こうぎょ)されたと伝えられたのでした。
親王は羅越国において虎の害に遭ったとしている書物もありますが、お釈迦様が前世で虎に身を与えた逸話になぞらえたものとも考えられ、実際のところは不明です。
【主要参考文献】
高岳親王の御事蹟(小池四郎, 大岩誠 記:日本南方協会)
真如親王御伝(水原尭栄 著:金尾文淵堂)



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