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天正遣欧少年使節団のその後

天正遣欧少年使節とは

 天正遣欧少年使節団は、天正10年(1582)に九州の切支丹大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)の名代としてローマ教皇の元へ派遣された4人の少年を中心とした使節団として知られていますね。ローマでは大歓迎を受け向こうで数年過ごした後、天正18年(1590)に帰国しています。

 ところが、天正15年(1587)に豊臣秀吉がいわゆる「バテレン追放令」を出し、出国前と国内の状況が変わっていたのです。

 バテレン追放令では禁教とまではされていなかったものの、完全にキリシタンにとっては逆風となっており、帰国した4人はそれぞれ別の運命をたどることになるのです。

 使節であった4人の少年たちのその後について紹介します。

伊東マンショ

 日向の戦国大名伊東義祐の孫で豊後の戦国大名大友宗麟の縁戚でもあったことから、宗麟の名代として主席正使を務めていました。

 日本に戻ってきたマンショらは司祭になることを目指し天草の修練院などで勉学に励みます。慶長6年(1601)にはマカオにも留学し、慶長13年(1608)には原マルティノ、中浦ジュリアンと共に念願の司祭に叙階されたのです。

 その後は豊前小倉を拠点に活動していましたが、キリスト教への逆風は年々強まり各地を転々とし、慶長17年(1612)に長崎で病死しています。

千々石ミゲル

 肥前の戦国大名大村純忠の甥であり、純忠の名代として正使を務めていました。

 帰国後は伊藤マンショらとともに司祭になることを目指し天草の修練院などで勉学に励みます。

 しかしミゲルは他の3人と違い、次第にキリスト教諸国の奴隷制度や植民地政策などに疑問を持つようになり、慶長6年(1601)にはキリスト教を棄教したのです。

 洗礼名ミゲルを捨てて千々石清左衛門と名を改め、従兄弟の肥前大村藩主大村喜前に仕えます。

 清左衛門は自ら棄教しただけでなく、キリシタン大名であった主君喜前にも「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と棄教させ、他のキリシタンに対しても棄教を促したといいます。

 しかし、熱心なキリシタンらからの反発を招き、やがて大村藩から追われてしまうのです。

 近年の研究では、2003年に諫早市多良見町で千々石ミゲルのものと思われる墓石が確認されており、寛永9年(1633)に亡くなったようで晩年は同所に隠棲していたものと考えられます。また、発掘品などから、キリスト教の信仰は捨てていなかった可能性も指摘されています。



中浦ジュリアン

 肥前中浦城主小佐々純吉の子で、副使を務めています。

 帰国後は伊藤マンショらとともに司祭になることを目指し天草の修練院などで勉学に励み、慶長6年(1601)にはマンショらとマカオにも留学し、慶長13年(1608)には伊東マンショ、原マルティノと共に司祭に叙階されています。

 しかし、慶長17年(1612)と翌年に出された江戸幕府による禁教令により運命は暗転します。

 当時、伊東マンショは病死し、千々岩ミゲルは棄教しており、原マルティノはマカオに追放されています。一人ジュリアンは国内で潜伏し布教活動を続けるのです。

 その後約20年に渡り九州各地を渡り歩きながら隠れて布教していましたが、寛永9年(1632)についに捕縛されます。

 ジュリアンは厳しく詮議され拷問を受けるも信仰を捨てず、翌寛永10年、長崎で穴吊るしの刑に処せられます。穴吊るしの刑とは汚物だらけの穴に逆さ吊りにされて長時間をかけて死に至らしめる残酷な刑で、共に刑を受けたフェレイラ神父(映画「沈黙」のモデル)は耐えきれずに棄教しましたが、ジュリアンは最後まで信仰を貫き殉教したのでした。

 約400年後の2008年、ジュリアンはローマ教皇により福者に列せられています。

 ちなみに、棄教したフェレイラはその後沢野忠庵と名乗って日本人と結婚し、他の棄教した聖職者(転びバテレン)とともにキリシタン取締りに当たり、慶安3年(1650)に江戸で死去したようです。

原マルティノ

 肥前大村の武士原中務の子で、副使を務めています。

 帰国後は伊藤マンショらとともに司祭になることを目指し天草の修練院などで勉学に励み、慶長6年(1601)にはマンショらとマカオにも留学し、慶長13年(1608)には伊東マンショ、中浦ジュリアンと共に司祭に叙階されています。

 江戸幕府により禁教令が出されても棄教しなかったため、慶長19年(1614)マカオに追放されたのです。

 マカオでも信仰を続け、日本語書物の出版などもしていたようですが、寛永6年(1629)、同地で死去しています。

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