土一揆(徳政一揆)とは?
室町時代中期になると、畿内を中心に土一揆(つちいっき)が頻繁に起こるようになります。
土民(農民)たちが作り上げた自治的な村、いわゆる「惣村」の団結を基に、都市部の困窮した町人や武士をも取り込んで徳政(債務免除)を求めて蜂起したもので、「徳政一揆」とも呼ばれます。
今回は室町時代の主な土一揆、徳政一揆について紹介します。
正長の土一揆~大規模一揆の起こり
正長元年(1428)に京都で起こったもので、
「日本開白以来土民蜂起是れ初めなり」
とされ、初めての大規模な一揆といわれます。
一揆勢は「徳政!!」と号して、酒屋、土倉、寺院等を襲って破却しながら質入れした物品を略奪し、借金証文を破り捨てたといいます。
この一揆は管領畠山満家が自ら鎮圧しますが、民衆が立ち上がった初めての大規模一揆として、幕府、社会に大きな衝撃を与えたのです。
嘉吉の徳政一揆(土一揆)~初の幕府徳政令
嘉吉元年(1441)、嘉吉の変により6代将軍足利義教が赤松満祐に殺され、義教の嫡男足利義勝が7代将軍となりますが、京都、近江などの民衆が
「将軍の代替わり時には徳政の例あり」
として、徳政を求めて蜂起します。
赤松満祐討伐のために山名持豊(宗全)の軍勢が京を留守にした隙をついて蜂起したのです。
一揆は数万人の農民、地侍が参加する大規模なもので、その陣営は16箇所に及び、京都の出入り口7箇所を封鎖して物資の供給を断ちます。
一揆の中心は東寺に陣取り、徳政令を出さなければ町に火を放つと気勢を上げ、金権階級の酒屋、土倉、寺院を襲撃しますが、地侍の指導の下で組織的な行動をとり、勝手な略奪を取り締まったといわれます。
徳政を恐れた土倉たちは、管領細川持之に賄賂千貫(現在の価値で1億円程度でしょうか)を贈り鎮圧を依頼しますが、持之の出兵命令を諸大名は拒否したため、持之は鎮圧を断念し賄賂を返還します(>_<)
また、一揆勢は徳政の対象を農民のみならず公家や武家も包括するよう要求したため支持は広がり、幕府はやむを得ず要求を受け入れ、山城一国に徳政令を発布(嘉吉の徳政令)したのです。
正長の土一揆では私的な徳政は行われたものの幕府は徳政令を出しておらず、この嘉吉の徳政令が初めての幕府徳政令でした。
これ以降、幕府は徳政令を度々発出するようになります。
寛正の土一揆~続く土一揆
寛正元年(1460)から寛正2年(1461)にかけ、長雨・異常低温等により中世最大の飢饉とされる寛正の大飢饉が起こります。近畿・山陽・山陰・北陸で大飢饉となり、京都に流入した難民で餓死する者は8万2000人に及び鴨川一面に死骸が横たわったといわれます。
そのような状況の中、寛正3年9月11日、京都で蓮田兵衛という者を頭領とした土一揆が起こり、富豪の家を襲って金品の略奪を始めました。
幕府は山名家や土岐家に命じて討伐しようとしますが、一揆軍は増々盛んになり土蔵を襲って火を放ち、京の三十余町が延焼してしまったとされています。
討伐軍の中にも略奪に走る者があり、幕府は赤松家や京極家なども討伐に向かわせ、赤松政則らの活躍により10月29日にようやく鎮圧され、11月2日に淀で蓮田兵衛も捕えられて殺されました。
しかし不安定な政治、社会情勢の中、その後も一揆はたびたび起こっていったのです。
分一徳政令とは?
「分一徳政令」は、享徳3年(1454)に播磨で起こった「享徳の徳政一揆」から始まったといわれます。
これは、債務者(一揆側)が債務額の10分の1又は5分の1の手数料(分一銭)を幕府に納入すれば徳政令を適用して債務の破棄を認め、逆に債権者(土倉側)が債権額の10分の1又は5分の1の手数料(分一銭)を納入すれば徳政令の適用はしないとするものでした。
幕府にすればどちらに転んでも一定の収入を得られるという都合のいい制度であり、この一揆以降、この「分一徳政令」が常態化したのです。
次回は、室町時代の「国一揆」について紹介します。


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