今回は、豊臣秀吉の姉・智(日秀尼:にっしゅうに)の、弟秀吉に振り回された過酷な生涯と、それでも続いた華麗な子孫について紹介します。
智は、天文3年(1534)に、尾張国で父弥右衛門、母は仲(後の大政所)の娘として生まれたとされています。秀吉は天文6年(1537)の生まれで、智は秀吉にとって同父母の3歳年上の姉になります。
成長後、尾張国海東郡の住人である弥助(後の三好吉房)に嫁ぎ、永禄11年(1568)に治兵衛(後の秀次)、永禄12年(1569)に小吉(後の秀勝)、天正7年(1579)に辰千代(後の秀保)を産みました。
長男の秀次を生んだのが34歳と当時としては高齢であるので、前に婚姻していたのか、夭折した子供がいた可能性もありますが分かっていません。
この頃までが、貧しくても智にとっては幸せな生活だったのかもしれません。
秀吉に翻弄される人生へ
さて、秀吉の立身出世に従って、智の家族の人生も否応なしに巻き込まれていきます。
元亀3年(1572)、信長による浅井攻めの中で、秀吉は敵の調略を進め、宮部継潤を調略した際に、継潤の養子(実質的な人質)として当時4歳の治兵衛(後の秀次)が送られたのです。
その後次兵衛は、時期については諸説ありますが、天正10年(1582)頃までには、秀吉と接近した阿波国の三好康長(咲岩:しょうがん)の養子となります。後に秀吉の跡継ぎとされる次兵衛(秀次)ですが、この頃までは秀吉の便利な道具として扱われているようですね。
ちなみにこの時に夫の弥助も三好姓を使って三好吉房と名乗るようになります。
その後秀次は一門の大名として徐々に重用されるようになり、天正15年(1587)に秀吉が九州征伐を終えますが、天正16年(1588)には三男の秀保が、智と秀吉の弟秀長の娘おみやと婚姻し婿養子に入っています。
その後、天正18年(1590)には小田原征伐も終えて秀吉の天下統一となりますが、秀次には尾張、伊勢の100万石が与えられ、智はこれに従って犬山城に居を構えました。
この時次男の秀勝には甲斐、信濃が与えられましたが、智が僻地におくのは不憫であると秀吉に哀願したので、翌年には秀勝は美濃岐阜城へ移転することになり、吉房と智は秀次の居城である清洲城に移ったとされています。
天正19年(1591)に秀次が関白職を秀吉から譲られると、一家は聚楽第に住むこととなり、秀吉が嫡子鶴松を亡くすと、秀次・秀勝は秀吉の養子となります。また、同年、三男秀保は、病死した秀長の跡を継いで大和・紀伊の大名となっています。
ちなみに、次男秀勝は信長の妹お市の方の娘、浅井三姉妹の末娘お江の方(淀君の妹)を妻に迎えています。
不幸の始まりと絶望
秀吉に振り回されながらも順調に栄華を極めてきた智の子供たちですが、ここから不幸が始まります。
文禄元年(1592)、次男秀勝が朝鮮出兵の最中に病死してしまいます。まだ24歳の若さでした。妻のお江の方との間に、娘完子(さだこ)がいましたが、お江の方は後に徳川秀忠と再婚し家光らを生んでいます。
なお、三男の秀保も朝鮮出兵のため15000の兵を率いて肥前名護屋に赴いており、秀保の名護屋での陣屋は、現在150箇所ほど確認されている全国の諸大名陣屋の中で最大規模を誇っていました。余談ですが、名護屋城は取り壊されているものの、石垣の下部や縄張り等はそのまま残っており、秀吉の天下普請の名残を残す貴重な遺構となっています。
文禄2年(1593)、秀吉に実子・お拾(豊臣秀頼)が誕生すると、いよいよ雲行きが怪しくなってきます。
病死した次男秀勝に続き、文禄4年(1595)4月に三男秀保も急な病で亡くなってしまうのです。秀吉はその死を悼む姿勢を見せず、葬儀を隠密裏に済ませるよう命じたといわれ、死因については謎があり事故死との説もあります。
更に不幸は続きます。同年7月、秀吉の後継者として関白の地位にあった秀次が突然秀吉から蟄居を命じられ、切腹させられたのです。そして秀次の妻たちと智にとっては孫に当たる子供たち5人も、秀吉によってことごとく処刑されてしまったのでした。
智はわずか4年の間に、子供3人と孫5人を失ってしまったのです。その絶望は計り知れないものだったでしょう。
なお、秀次の実父である夫の吉房も連座して所領を没収されて讃岐国に流罪となり、秀吉によって智の家族は全ていなくなってしまったのです。
出家
絶望の中にあった智は、翌文禄5年(1596)に出家して日秀と名乗り、京都の村雲の地に瑞龍寺を建立します。
慶長3年(1598)、弟・秀吉が亡くなりますが、そのことで讃岐に流されていた夫吉房は赦されて帰京することができました。
なお、秀吉の死後、瑞龍寺は後陽成天皇から千石の寄進を受け、後に皇女や公家の娘が門跡となるなど「村雲御所」と呼ばれる格式高い寺院となります。瑞龍寺は火災などにより、現在は、秀次が近江を治めていたときの居城であった八幡山城の跡に移転して残っています。
その後、子供らの菩提を弔う日々を送る智でしたが、慶長17年(1612)には夫に先立たれ、慶長20年(1615)夏には大坂の陣で豊臣秀頼ら親族の大半を失い、ついに豊臣家が滅亡します。
多くの親族を失った智でしたが、熱心な法華僧侶として余生をおくり、瑞龍寺には秀吉正室北政所や秀次縁故の大名から度々贈物がなされていたそうです。
そして、子供たちに先立たれてから30年過ぎた寛永2年(1625)、智は享年92歳でその激動の人生に幕を下ろしたのです。
瑞龍寺は、次男秀勝の娘完子の娘(智の曾孫)が継いでいます。
子孫
長男秀次の子孫
秀次の子供はほとんど秀吉に処刑されましたが、二人の娘だけ生き残ったとされています。
一人は隆清院(りゅうせいいん)で、成長後真田信繫(幸村)の側室になり、娘と息子を生んでいます。大坂の陣の際には祖母の智の元に身を寄せて生き残ることができたと伝わります。
隆清院の娘顕性院(智の曾孫)は出羽国亀田藩主・岩城宣隆に嫁いで秀次と真田家の血脈を残し、息子の幸信も岩城家に仕えましたが、真田性を憚って曾祖父の三好姓を名乗っています。
もう一人生き残った秀次の娘はお菊といい、成長後紀伊の代官山口兵内(へいない)に嫁ぎますが、夫が大坂の陣で豊臣方に付いたため、お菊も徳川方に処刑されています。
次男秀勝の子孫
智の次男秀勝の一人娘完子(さだこ)はその後伯母の淀殿に引き取られ、慶長9年(1604)、五摂家の九条忠栄(ただひで:後幸家)に嫁ぎます。慶長13年(1608)には忠栄が関白になったことで関白の妻である「北政所」となります。
完子は徳川三代将軍家光の異父姉にもなり、その子供たちは、
- 長男・二条康道 二条家当主
- 長女・序君 東本願寺宣如室
- 次男・九条道房 九条家当主
- 次女・通君 西本願寺良如室
- 三男・松殿道基 松殿家当主
- 四男・栄厳 東大寺別当、随心院住持、大僧正
- 三女・瑞円院(日怡)瑞龍寺2世
と各名家にその血脈を残し、次男通房を通じて現在の皇室にも繋がっています。
完子は祖母智とも終生交遊があったようで、先述のとおり完子の末娘瑞円院(日怡)が智の跡を継いで瑞龍寺2世となっていますね。



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