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鳥取城飢え殺しの悲劇

 天正9年(1581)、羽柴秀吉は2万の兵で毛利方の吉川経家が立て籠もる鳥取城を包囲します。

 当時経家は安芸吉川氏の分家である石見吉川氏の当主でした。吉川元春は羽柴軍の攻撃に備え、経家を鳥取城に派遣し守備するように命を下していました。

 城中には2千の兵のほか、女子供の非戦闘員2千の計4千人もの人が籠ったといいます。

 兵糧攻めの名手である秀吉は、あらかじめ周辺の地域から米を高値で買いあさります。秀吉の戦略とは知らずに商人や農民も高値で米を売って喜んでいました。

 その後秀吉が城の周りを完全に包囲した際には、皆が競い合い高値で米を売り払っていたため、城内にあるはずの米が不足していたのです。

 城内はたちまち食料難に陥り、木の根や草、牛馬を食って飢えをしのぐこととなります。

 しかし4千人もの籠城ですぐにそれも無くなり、毛利家も何とか兵糧を送ろうとしますがことごとく秀吉軍に阻まれ、鳥取城内では弱った人間から次々と力尽きていきます。

 やせ衰えた者が柵際に寄ってきて助けてくれと叫び嘆くのを攻め手が鉄砲で撃ち倒すと、まだ息があるのに人々が刃物を持って集まってきて、関節を切り離し肉を切り取っていったといわれています((((;゚Д゚))))

 多勢に無勢の上食料もなければどうしようもありません。4か月の籠城後、経家は城内の者の命を助けることを条件に降伏を申し入れます。

 秀吉は経家の心意気に感じ入り何とか命を助けようとしたようですが、経家は死を選び立派に腹を切ったのでした。

 開城後、秀吉は城外に大釜を並べて粥を煮て、城から出てきた人々に与えましたが、人々はをやせ衰えた空腹の腹に一気に詰め込んだため、半分以上が頓死してしまったそうです(ノД`)・゜・。何とも悲惨な戦国の話のひとつです・・・

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