母於万の方と秀康
天正2年(1574)、秀康は徳川家康の次男として浜松城下で生まれました。母親の於万(お万)の方は、家康の正室築山殿の奥女中であったといわれています。しかし、築山殿は於万の方を家康の妾とすることを承認しておらず、そのため懐妊をした於万の方は浜松城内から追放されました。
城下の家臣屋敷で生まれた子は於義丸と名づけられます。名前の由来は顔が「ギギ」という鯰の一種に似ていたからといわれています。
父家康と秀康
当初は家康への目通りが叶いませんでしたが、秀康の存在を知った兄信康が仲介して家康との対面が実現しました。
しかし、自分を気にかけてくれた信康が謀反の疑いを掛けられて、天正7年(1579)に切腹となるという事件が起きます。築山殿も同時期に殺害されます。そして、築山殿の死後にようやく家康の子として認知されたのです。
その後、天正12年(1584)の小牧長久手の戦い後に、羽柴秀吉との和睦の条件として、秀康は実質的な人質として秀吉の養子となり羽柴秀康と称します。
秀康の初陣は14歳の年の天正15年(1587)、秀吉の九州征伐の時といわれています。
跡継ぎは弟秀忠
そして、天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐のあと、関東の名門結城晴朝の養子に入り10万1000石の大名となりました。そのため、家康の跡継ぎは、三男の長松(後の2代将軍徳川秀忠)とされたのです。
秀康が家康の跡継ぎになれなかった理由は、結城家に養子に入ったことの他に、正室の子でなかったからともいわれています。秀忠も正室の子ではありませんでしたが、三河国の国人領主西郷氏(三河国守護代)の出身でした。
母が奥女中だった秀康とはかなりの差があります。この当時は、生まれた順番より、母の身分が重要だったといわれています。兄がいたにもかかわらず、弟が嫡男になった有名な例では、源頼朝(三男)、織田信長(三男)がいます。
越前一国の太守へ
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い時には、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられます。このことから、家康が秀康の武将としての能力を高く評価していたことがわかります。戦後に秀康には、越前一国68万石が与えられました。これは、加賀前田家102万石、薩摩島津家77万石に次いで多い石高です。
秀康死後に新設される徳川御三家は、尾張徳川家61.9万石、紀州徳川家55.5万石、水戸徳川家35万石でした。徳川一門の中でも厚遇されていたことがわかります。また、2代将軍となった秀忠も、秀康に気を遣って、幕藩体制の中でも特別扱いをしていました。
将軍の兄秀康のエピソード
以下に秀康の性格があらわれているエピソードを紹介します。
慶長7年(1602)秀康は江戸へ向かう道中、碓氷関所にさしかかります。当時江戸へは鉄砲の持ち込みが禁じられていたのですが、鉄砲持参のまま通過しようとしたのです。当然、関所の役人達に制止されますが、秀康はこれに「将軍の兄に無礼である」と無視してそのまま通行したのです。
この一件を知った秀忠は「兄上に殺されなかっただけ幸いであった」と言うのみで不問にしました。秀康が幕府の制度にとらわれない、「制外の家」の当主として扱われていたことがわかります。
また、秀康が越前国拝領の御礼として江戸に参勤した際に、品川まで秀忠が出迎えました。秀忠は駕籠の先行を秀康に譲ろうとしましたが、秀康が遠慮をしたため、お互いに並んで進んだといわれています。
会津征伐の時に、上杉景勝の抑えを任されていた秀康ですが、景勝が降伏すると家康への謝罪を仲介します。その後、伏見城内で景勝と同席した際の話として、同じ中納言でも先に任官した景勝に上座を譲ろうとしたそうです。しかし、景勝も将軍の兄である秀康より上座に着くことを憚り、お互いが譲り合ったということです。
結局、秀忠が秀康を上座にするよう指示したということですが、周囲の人々は秀康の礼節を重んじる態度に感心したといわれています。
秀康の最期とその子孫
以下に『当代記』に記述されている秀康の死去に関する部分を抜粋します。
「閏卯月八日、午刻、越前中納言秀康主逝去、年三十四、日来唐瘡相煩、其上虚也、京都より盛法印、驢庵、道三、此三人之医者相下、被用薬をけれ共不叶、」
この記述に「日来唐瘡相煩」とあることから、死因は梅毒だったとされています。
秀康の子孫は何度かの騒動を起こしながらも、「将軍の兄」の系統として優遇され、幕末まで各地の大名として存続しています(津山藩、福井藩、松江藩、前橋藩、明石藩など)。
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