天正9年(1581)、家康が武田方の高天神城を攻略した際、敵方の武将のうち、孕石主水佑(後和泉守)元泰(通称「孕石主水」)という武将だけ切腹させています。
なぜこの切腹に至ったのか、今回はこの孕石主水という武将について紹介します。
孕石主水とは?
孕石家は遠江の国人原氏の一族であったといわれ、主水の祖父行重が、遠江に支配を広げた今川氏親(義元の父)に仕えるようになったようです。
父光尚は今川家の家督争い「花倉(はなくら)の乱」で義元に味方しています。
元泰の「元」は今川義元から偏諱(へんき)を与えられたと考えられ、孕石家は今川家中である程度の地位にいたようです。
主水は天文21年(1552)に父の遺領を受け継いでいます。桶狭間の戦いで義元が討死した後も今川家に付いていたようですが、武田信玄が駿河に侵攻してきた際には武田家に従い所領を安堵されます。
その後は武田家臣として駿河・遠江支配に協力しますが、徳川家との攻防が続く中、高天神城の守将の一人となったのです。
高天神城は遠江における武田家の拠点で、元は今川家の重臣であった岡部元信が城主、武田家重臣の横田尹松が軍監、主水は奉行を務めていましたが、周囲は次々と徳川家によって攻略され、包囲のために多くの砦も築かれて孤立した状態でした。
勝頼からの援軍も来ないまま兵糧もなくなり、城主岡部元信らは包囲軍に突撃して討死し、主水は捕らわれの身となりました。このとき700人余りの城兵が討死し、堀が死者で埋まったといわれています。
ちなみに脱出に成功した横田尹松は、甲斐武田家滅亡後に家康に仕え、子孫は旗本最高の9500石を与えられています。
孕石主水と家康
逸話では、主水は家康の今川人質時代に、家康の屋敷の隣に住んでいたそうです。
人質といっても監禁されていたわけでなく、今川家からは大事に扱われており、家康は趣味の鷹狩りも楽しんでいました。
この鷹が主水邸によく糞を落としていたため、主水は「三河の小倅にはあきれ果てたものだ」と度々家康に文句を言っていたそうです。
高天神城落城の際、主水は重傷を負い大久保忠世の家臣に捕らえられ、家康の前に引き出されたそうですが、家康は即座に切腹を命じています。
家康は40年近く前の人質時代のことを恨みに思い、主水を切腹させたともいわれますが・・・逆恨みではないでしょうか(*_*)
切腹の際主水が南を向いて腹を切ろうとしたところ、徳川の将から「孕石主水ともあろうものが切腹の作法も知らぬ」と言われます。これは当時西の極楽浄土の方に向いて切腹するのが一般的であったとされたためです。
この言葉に主水は、
「十方仏土。極楽浄土が西にしかないと思うておるのか」
と言い返し、見事に腹を切ったといわれています。
ちなみに、家康は主水を召し抱えようとするも、主水の方が家康に従うのをよしとせずに腹を切ったとの説もあります。
家康幼少期のエピソード
ついでに家康の今川人質時代の別のエピソードを紹介します。
10歳の時に今川義元の元で行われた新年の祝宴に参列しましたが、家康の顔を知る者がほとんどおらず、どこの子だろうかと話になり家康を知る者が「松平清康の孫」と話すも、誰も信じる者はいなかったとか。
すると家康は黙って縁側まで進むと、袴を捲りあげ勢いよく小便をし、素知らぬ顔で席に戻りました。居並ぶ人々は、さすがは清康の孫だとその度胸に驚いたそうです。(家康神格化のための逸話と思われますが(*_*;)
家康と北条氏規
主水とは別隣に住んでいたのが北条氏からの人質であった北条氏規でしたが、氏規と家康は境遇も年齢も近かったことから仲は良く、人質時代が終わった後も親交が続いています。
氏規は豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が降伏した後に高野山で蟄居し、その後許され、子孫は江戸時代狭山藩主として明治まで続いています。
孕石主水の子孫は・・
土佐藩重臣孕石家
孕石主水の子元成は、主水の死後も武田家に仕えますが、武田家滅亡後、秀吉の小田原征伐時に同じ武田遺臣であった板垣正信(武田家重臣板垣信方の嫡孫:板垣退助の先祖)とともに陣借りし戦功を挙げて名を馳せ、山内一豊に200石で召し抱えられます。
陣借りとは、元々正式な配下でない武将が自分で戦闘に加わることで、武功を挙げることで恩賞を受けたり仕官したりすることができました。このときは井伊直政の部隊に属して戦って功を挙げるも負傷し、遠江に戻って療養していたところ、一豊に召し抱えられることになったようです。
元成は山内家の土佐入国時に450石、更に三代忠豊の傅役を命じられて200石の加増を受けますが、寛永9年(1632)に江戸在勤中に亡くなっています。
元成の跡は養子の正元が継ぎ、正元の子元政は家老に抜擢されるなど、孕石家は代々土佐藩重臣として存続しています。
井伊家家臣孕石源右衛門
なお、井伊直政・直孝の家臣に孕石源右衛門泰時という武将がいましたが、この源右衛門も元泰の子だったといわれています。
源右衛門は武田家では山県昌景に付いて活躍し、武田家滅亡後に1500石を与えられて井伊家に仕えて井伊家の軍法を定めるのに活躍します。彦根城築城の際には縄張り(設計)にも携わったようです。
75歳で出陣した大坂の陣では武田旧臣の子である広瀬左馬助とともに井伊家の旗奉行を務めますが、直孝の再三の命令を聞かず家康の所を通過するまで旗を立てさせず、通過後に旗を立てさせたそうです。これは甲州流の軍礼で、それを知る家康から賞賛されたといわれます。
夏の陣の激戦で井伊軍が苦境に立った時、源右衛門は高齢の自分が残るとして左馬助を逃がそうとしますが、左馬助も逃げず、二人とも旗を手に討死しています。
この戦いで井伊軍は辛うじて勝利を収めたものの損害は大きく、翌日予定されていた天王寺口での先鋒は本多忠朝(忠勝の子)らに交代となりましたが、これは家康の御使番を務めて井伊家とやり取りした横田尹松が、井伊家の面目を立てつつ家康の機嫌を損ねないよう配慮したためとされています(徳川実紀)。
【参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
掛川市史(掛川市)
土佐史談(土佐史談会)
更生舎)
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