明治維新50年を記念して編纂された『維新戦役実歴談』から、白井胤良(旧名白井良三郎)という長州藩干城隊士の回顧談を紹介します。
萩を出発
干城隊が萩を出発したのは、明治元年6月15日であります。その時の主な世話人は福原又市、第一小隊長が福井太郎、第二小隊長が平岡来三郎、その二隊が筑前の大鵬丸へ乗って萩を15日に出発しました。
それからその船へ同船しましたのが奇兵隊の三浦中将、三好中将、これが小隊長で同船になりました。その中へ久保無二三という人が乗って居られた。この人はどの隊というわけでもありませぬが乗って行かれました。それから確か18日に越後の柏崎へ船が到着しまして、その日は柏崎へ一泊致しました。
長岡の戦い
それからその翌日は陸行して開原(刈羽?)という所まで参りました。そこは寒村でひどい所でありました様に思います。干城隊はそこへ行きましたが、奇兵隊はその時どうでございましたかよく知りませぬ。同行したか道が違ったかよく知りませぬ。それから開原へ一泊いたしますと、前の方から砲声が絶えずドンドン激しく昼夜差別なく聞こえておりました。
今の山縣元帥閣下が大本営の参謀で居られました。そこで打合せがあったとみえまして、福原あたりが大方相談が済んで、翌日長岡の方へ向いて参りました。それから長岡へ参りますと長岡は落ちておりましたから、長岡へ隊が一泊致しました。一泊致しますと夜半何時頃でありましたろうか、北方水門口へ向かって賊が攻撃して来ました。
干城隊は急に出て行けということで、干城隊の書記に中島初之進という者が居りましたが、それが本営へ行った。本営へは山縣さんが来ておられましたか、外の者が来ておられましたか、おもに奇兵隊であります。奇兵隊の福田良助の指図でございましたか、賊が来るから二小隊早く出て行けということでありますから出て行きました。
出て行くと水門口まで行きませぬうちに賊が進んできて戦いを始めました。第一小隊長福井太郎が討死しました。
この福井太郎はかねて、所属の隊を振るわせるにはどうしても自分が小隊長となって是非とも真っ先に戦死しなければならぬということを言っておられたということであります。私は直には聞きませぬが多分それを実行された。
そこでその小隊には隊長が居られませぬから井上弥八郎という者が跡の隊長になった。これは私の友人で萩の人で撃剣もやれば槍も使う。小隊長が一番先に死んだというので死期が喪失したから井上が大いに励まして、そんなことではいかぬ、これから弔い合戦をして大いに戦わなければいかぬと言うて水門口へ真っ先に立って勇戦をされました。
この人の勇戦は干城隊ではよほど響き渡っております。ついに水門口のみならず元の通り盛り返してしまいましたがこれは井上の功というてよい。その時分には奇兵隊がおりましたが、攻め口が違いますからよくは存じませぬ。山手から何とかという方面に行っておられました。
水門口には富山藩が居りましたが、これは一向に振るわぬで困難しておりましたが、とにかく富山高田の兵が一緒に戦ってようやく水門口を回復しました。それが二十日でありましょうと思います。
水門と言うのは本当の名ではございますまいが水門と言っておりました。そこを平岡来三郎之隊が久しくそれを守っておりました。児玉愛次郎がその小隊の半小隊長でおりました。一番隊長はやはりその隣の辺に居りましたが一緒に居らなかった。何分自分の隊のことしか知らぬ。それから筒場という所が長岡の本道で、そこには薩州兵が守って居った。
それから6月25日になりまして後の隊が参りました。その内から一小隊が来て私共の守っている水門の交代をしました。その時にそこは誠に危ないからよく気を付けなければいかぬ、毎晩小襲撃をするから余程気を付けなければいかぬと平岡も児玉愛次郎もよく交代の兵に申し聞かせて、私共は長岡へ休息に帰りました。
帰りますと案の如くその隊はその晩着いて初めてやって来た者でありますからひどい目に遭いました。これは夜襲ではありませぬ、朝掛けでありました。小隊長三浦政三郎が討死しました。そのほか羽仁又左衛門をはじめ兵卒も大分討死負傷をしました。その為にその隊と又代わって私の付いて居った平岡の隊がそこを守りに行った。
それからそこに久しく居りまして七月の幾日でありましたろうか、あすこで盆をした様に思います。それから跡の隊も参ります。それから続いて振武隊が参ります。段々各藩にも多少の兵が参った。それから私は本営に何か用があるのでそちらへ附いておりまして、平岡の隊を離れて帰ってきました。
そうすると七月の二十日頃でありましたろうか、長岡を敵が襲撃して、こちらは大敗北で丁度この時は兵は皆山手の方へ上げて、その晩にこちらからも大進撃をするというので南へ向いて、東の方の山手の方へ皆上がりました。真ん中は余程手薄であったので、それで有名の長岡の河合継之助という者が指揮して大変な攻撃をしてきました。
遂に長岡は再び敵の有になってしまった。その時山縣さんや前原一誠などは長岡に居られまして、進撃の準備がしてあって出て行こうという所へやって来た。こちらは朝の四時頃にやろうと思ったのをそれより早く向こうが来て中央を破られた。
兵は居らず肝心な所が破られたからどうすることもできませぬ。山縣さんも大変御尽力になり、前原だの薩摩の吉井幸輔なども段々尽力されたが、兵は皆遠方へ遣ってあり、ちょっとそれへ手が付かぬ。そこで妙見という所までやむを得ず引き上げて、それから七月の二十九日でありましたが、干城隊その他各隊共に行ってドンドン掛って行きましたが、今度は反対に向こうは忽ち敗走しました。
干城隊の小隊長でありました林三介という人は西洋風の好きな人でその時は時計を持っていた。長岡の城を取るのに一時間半かかったと言われました。その時はウカウカ聞いておりましたが今日それを思い出しました。それでとうとう長岡の城は火の手が上がりました。長岡は既に前に焼けておりましたが、その残りの建物に火の手が上がって賊は逃げた。
干城隊は本道へ進みます。各隊は信濃川におります。川を渡って行くものでありますから向こうでは足止まりがなくドンドン逃げるのを長岡のずっと先まで追うて行きました。
そこへ十津川の御親兵というものも来ます、薩摩の兵の一緒になって追うて行くものがありますから、多勢に無勢で仕方なしに向こうは引いていった。
今市見附という所まで奇兵隊が取って居ったそうであります。それを兵が少ないために後ろへと下がって長岡の水門の辺りで防御していたのでありますが、再びその辺りまで追うて行った。限りなしにドンドン追うて行きました。少々小戦がございましたがしきりに向こうまで追うて行きました。
それから長岡の城の落ちる前に山田中将が干城隊の二小隊を連れていかれた。それからほかの兵も参りましたろう、それは私は存じませぬが、蒸気船へ乗って新潟を取るということであって、松崎という所へ上がってそれから信濃川を隔って向こうから新潟を打ちに行った。
それでこちらはドンドンその勢いで追うて行きます。それから向こうの方も手が多うて松崎から新潟をとうとう取ってしまって随分骨が折れた様子でありますが遂に取ってしまった。それから長岡の方から進んだ兵隊が余程楽になりました。
それから私が何処やらに居ります時分に遠方に日中えらい火の手が上がりました。あれは何処だろうか、敵が引いてそう焼く理屈はないが、どういう訳かと土地の者に問いましたら、あれは村松でありましょうと申しましたが、案の如く村松でありました。
村松は米沢藩が自分の味方にしようとして大分城内が粉々で、半分は米沢に附き、半分は官軍へ附くということで村松は中々米沢の言いなりにならなかった。
それで村松は米沢へ附いた者が有るが藩としては附かずにおった様で、そういう混雑でありますから城下を焼かれた。此方は士気が振るってズンズン行くようになりました。それから村松へ前原が行きまして、そこから本営のような形になりました。
会津・米沢へ
それから新発田の方も落ちたということで、前原が私に新発田の方へ行けということであります。それから今度は新発田へ行きました。陸を通って私と平川新之丞という者と新発田の方へ参りました。
それから新発田の方へ行きしなに新潟を通って行きましたから新潟はどういう様子になったか見て行こうと思ってそこへ上って見ましたら高洲梅三郎が民政をやっておりました。そこで一泊して新発田へ参りました。新発田の本営の上役は久保無二三であります。
明日会津口へ向かって進撃する、左様でございますか、その時奇兵隊の小隊長野村三千三も翌日はやるということになった。それから干城隊が柏崎から船に乗って行ったのが七番小隊であります。
新発田の兵というものが初めは賊に附いておりましたが、百姓が一揆を起こして是非官軍にならなければいかぬというので、その為に国論が一変して、新潟を落とした時分に官軍の方へやって来たそうです。
私共官軍の方になりたい、主人はまだ幼年でありまして一旦米沢に附いたけれども、何分小藩であるからやむを得ず附いたのであると色々言うたそうであります。それは宜しい、その代わり実績を挙げよ、そうしたら降参を許す。
そこで、米沢の兵と並んで居ったが鉄砲を撃った。そこで大分混雑した。気狂いが何をするという様なことで。所が新発田の兵が奮っているかといえばそうではない。その時やむを得ずやったので、長州や薩州の様に戦に慣れた兵でありませぬから、兵式操練というものも熟練しておりませぬ。
兵を出せということになって兵を出すことになりましたが新発田は金持ちの大名でありますから給与向の方を致しますと申した。そこで新発田の兵がそういう風じゃから、貴様新発田の兵の監督に行けということで、小癪なことでありますが私が監督を言いつかって、それから先に赤谷という所に会津の番所がある、それへ向いて行けというので新発田の兵が先へ行く。それへ私が附いて行きました。
それから山中梅次郎という干城隊の小隊長が干城隊を率いてきた。それからドンドンやりましたが、私は怪我をしました。山中は討死をしました。向こうは番所がある所だから一寸抵抗しました。干城隊の中で二三人死にましたがとうとう追い払いまして、私は新発田の病院へ帰りました。ごく軽い傷でございます。私の友人の平川新之丞という者は討死しました。それの屍骸を調べに行って見ました。それからかの有名な諏訪峠がございましたが、敵はもうそこを支える暇がありませぬ。
桑名の兵も居た津川は、会津の猪苗代から来る急流で萩の松本川より幅が狭もうございますが、中々急流で深うございますから渡ることが出来ない。かつ干城隊の人数も少ないのでそこを限りで干城隊は後ろへと引き上げてそれから新発田から両方へ兵が分かれた。一つは会津の方へ行き、私は米沢の口へ行くことになった。
そちらへ行きますと米沢から降参のことを言うてきました。それで干城隊は、まず津川を向こうへ行かずにその辺で終わりました。
それより前に川の向こう側へ振武隊を中村芳之助君が引いて困難な所を行かれた。それは奇兵隊が先へ入ったかどうか私は知りませぬが、振武隊も随分困難して行った。降武隊が取ったというのも無理はない。去りながら奇兵隊の三浦さんの隊が入り込んだのは早かったと思います。振武隊の竹本多門の隊が長岡の敗れた時分に大変痛んだという話を聞きました。そちらの口はそれだけであります。
それから米沢の方の口は下関という所へ行きましたら米沢から降参してくるということで、その米沢から降参してくる次第は、米沢というものは勤王の家だ。そうして日向の高鍋藩(秋月家)と御親類であるので、秋月家から使節を立てられて、賊になって汚名をこうむってはいかぬという忠告があり、それからいつも戦が不利になり色々して降参することになったそうであります。
その時分坂田潔という秋月の学者が米沢へお使いに行ってよくその事を申して、君公を諫めていよいよ降伏することになった様であります。しかし降参というが何を言うやら分らぬからもし談判して嘘か本当か分らぬから間違ってこちらの言う事を聞かぬ時分はすぐ討つつもりで覚悟しておりましたが真の降参でありました。その実賊の方が余程風向きが悪くなったものでありますから降参になったのであります。
それから干城隊が二小隊ばかり井上小太郎が世話をして奥平謙輔も行ったということであります。それが世話をして米沢の方へ行ったということでありますが、私はそれから新発田へ帰りましたから後は知りませぬ。
それから新発田へ帰りましたら丁度そこへ桂太郎さんが来て居られました。桂さんが前原に用がある、是非兵を分けて出してくれなければいかぬという。ところが今兵をやることは出来ぬ、お気の毒だが出すことは出来ぬ、金が不自由なら金を出す、着物が不自由ならば私は一枚しかないがあげると言って話しておられた。
それで私は少々怪我をしておりました。段々言われるから先へ行こうと思いまして同じ行くならば桂に附いて行こうと蒸気船に乗って新潟に出ました。筑後の蒸気船で何とかという船であります。高津慎一がたしか桂に随行しておりました。その時薩州の西郷真吾(従道)さんが将校十人ばかりを連れて船に乗った。あの辺りに薩摩の兵がいるが一向に振るわぬから私が行って世話をすると言って連れて行かれた。
それからその船は久保田の港へ着きました。そこへ行きましたら澤三位さんがお出になっておってお目に掛かりました。それから西郷さんや薩州の船越洋之助も行っておりました。
庄内へ
それからとにかく庄内へ向かって戦うからみんな尽力せよということで庄内の方へドンドン向いて行きました。桂と私は道から分かれまして私は浜手の方からズンズン庄内の方へ向かって行きました。
観音峠と言って有名な所がある。そこで向こうが少々防御しておりました。そのうち会津の落城の評判があったものでありますから、そこも戦わずして引いてしまいました。それから桂の隊の山本登雲助(ともすけ)という人がその方面の参謀であって、秋田から一緒に酒田へ来ましたら会津は降参、庄内も降参という事にきまりました。
それで私共用がないから、自分で兵を引いて行ったのではありませぬ、こんな所に残っていても別に御用はないから、それから新発田へ帰りました。干城隊の方で会津へ入り込んだのは児玉愛次郎がよく知っております。私はその方面のことはよく知りませぬ。
そこで新発田に居りましたが、前原、奥平、井上、平岡などが越後に残って居ります。蒸気船が来ると言うから待っておりましたが蒸気船が来ませぬから私はそのまま居りましたが振武隊、奇兵隊、干城隊は陸路を通って北陸道から京都へ帰った先の道を通って行ったということであります。
長岡の余談
それから話が前へ戻りますが、長岡の信濃川の洪水というものは三十年以来の洪水であったそうであります。その時分に三好軍太さんが諸隊を引いて地理は分からぬのに出た、分からぬのが幸いであった、長岡の城の本道に当たる道が大水で船が流れた、向こうへ着いて上った所が、上から兵が上るが当たり前だがあそこらへ大兵が上ってくれては此処は維持することはできぬと言って狼狽した。
そこでわずかに百人ばかりの兵で長岡城を落としたということで、これは承ったことで私の参るより前のことでありました。それから松崎の方から上がった人の話を聞くと向こうの方からドンドン新潟へ行きました。すると庄内飛脚がやって来たそうで、敵が上陸したことは知らぬでやって来たので殺されてしまった。後に庄内の人に聞きましたら、あれは家老であったということで、こちらは初めの血祭で愉快であったと言っていた。向こうは可哀そうで駕籠に乗ってやって来たところを殺された。
越後方面は長岡、新発田、村松、その他いずれも小藩であったから大したことはないと思って行ったところが、長岡の兵は中々頑強でありました。越後戦争の始めより山縣参謀の御骨折りというものは非常なものであったと思います。私が出ました戦争の模様は大略右の通りであります。



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