伊奈昭綱は安土桃山時代の武将です。徳川家の家臣で、一般的には伊奈図書の名で知られています。
伊奈昭忠の次男として生まれ、嗣子がいなかった兄昭応の養子となって、兄の死後家督を相続しています。
天正18年(1590)、小田原征伐に従軍し、家康の関東入国と共に2500石を与えられており、慶長5年(1600)の会津征伐に際しては、家康との対立を深める上杉景勝の下へ反逆の実否を問いただす使者として派遣されました。
関ヶ原の戦い後、昭綱は山城国日岡の関の守衛を任されますが、この時に事件が起きます。
尾張清洲城主の福島正則が家臣の佐久間嘉右衛門を伏見城の家康のもとへ使者として派遣し、日岡の関を通過しようとしました。
日岡の関の守衛だった昭綱の家来は佐久間が通行証をもっていなかったことを理由に通過を認めなかったので、双方で口論になり、佐久間が杖で打たれるということが起きたのです。
このことで面目を失った佐久間は正則に事件を報告後、自害して果てました。これに激怒した正則は、佐久間の首を家康に送り付け、責任者である昭綱の切腹を要求します。
これに対し家康は当事者である昭綱の家臣を処刑し、その首を正則に送りましたが、正則は納得しませんでした。仕方なく家康は昭綱を切腹させることになったのです。
以下に『寛永重修諸家譜』の昭綱の項から事件についての部分を抜粋します。
切腹した昭綱の家は子がいなかったことから絶家となりますが、昭綱の祖父貞政の弟の系統は関東代官頭職を江戸時代中期まで世襲しています。
この事件がのちの福島家改易の遠因となったともいわれています。家康相手にも無理を通す正則の印象が悪くなったのは間違いないですね。
関ヶ原の戦い直後で、まだ徳川家が絶対的な権力を確立する前に起きた悲劇的な事件といえます。
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