戦国時代、フランシスコ・ザビエルら宣教師の来日・布教により多くの武将もキリシタンとなっています。
しかし、天正15年(1587)の秀吉によるバテレン追放令により大名の入信は許可制とされ、制限がかかることになります。
江戸幕府もはじめ黙認していましたが、慶長17年(1612)に直轄領に対する禁教令が出され、翌年にはこれを全国に及ぼし、厳しい取り締まりが行われていくことになりました。
大名の入信については、純粋な信仰心によるもののほか貿易の利益を目的としたものなどがありましたが、主なキリシタン大名・武将とそれぞれの晩年について紹介します。
高山友照(図書)
1563年受洗。洗礼名ダリオ。摂津高槻城主であり、天正6年(1578)に荒木村重とともに織田信長に反乱を起こしますが、村重が逃亡すると友照は捕縛され、息子高山右近らの助命嘆願により越前の柴田勝家に預けられました。
信長の死後は右近とともに行動し、文禄4年(1595)にキリシタンのまま京都で死去しています。
高山重友(右近)
1564年受洗。洗礼名ジュスト。父友照の跡を継ぎ摂津高槻城主となりますが、荒木村重の謀反に際しては父と異なり信長に降ってその後も信長に仕えます。
信長死後は秀吉の武将として各戦で活躍し播磨明石6万石の大名となりますが、秀吉のバテレン追放令の際、キリシタン大名の代表的存在であった右近は棄教を迫られます。しかしそれに応じなかったため、改易されることになります。
これは、キリシタン大名の増加と連携を警戒した秀吉による見せしめであったといわれています。
その後は加賀の前田利家・利長の庇護下にありましたが、慶長19年(1614)、徳川家康によるキリシタン追放令を受けて、内藤如安らと共にマニラに追放されたのです。
家族たちや宣教師も乗った船は、水の漏れる船底から水を汲み出しつつ、漂流しながら1カ月かけてようやくマニラに到着します。
マニラでは信仰を守った日本の諸侯が来るということで大歓迎を受けますが、過酷な船旅で体調を崩していた右近は、到着からわずか40日後に死去します。スペイン総督の下、数千人が集まる盛大な葬儀が執り行われました。
一緒にマニラに渡った親族の中には、その後日本へ戻った者もいたそうです。
池田丹後守教正
1563年受洗。洗礼名シメアン。三好長慶、義継の重臣で摂津を拠点としており、ルイス・フロイスの書簡の中では「三好家中の主たるキリシタン」であるとされています。
後に義継を裏切って信長に仕え、佐久間信盛の与力となっています。
信長の死後は秀吉に仕えて、小牧長久手の戦いなどで活躍、豊臣秀次の与力となり、秀吉がバテレン追放令を出した後も、秀次から許されキリシタンのまま仕えます。
秀次が秀吉により自決されられた後に殉死したとも追放されたともいわれています。
内藤如安(忠俊)
1564年受洗。洗礼名ジョアン。内藤家は丹波の守護代を務めた家で、如安は松永久秀の甥として生まれ、後に内藤家を継ぎます。
足利義昭、小西行長に仕え、関ヶ原の戦い後は加賀前田家の庇護下に入り、4000石を与えらえています。
その後も信仰を続けていましたが、慶長19年(1614)、徳川家康によるキリシタン追放令を受けて、一族や高山右近らと共にマニラに追放されることになりました。
如安は医術の心得があったようで、マニラでは宗教書や医書の翻訳、日本人や現地人の治療などに当たったといわれ、寛永3年(1626)に80余歳で同所で死去しています。
妹の内藤ジュリアも熱心なキリシタンで、共にマニラに渡った後修道女のような生活を送り、如安が亡くなった翌年に同所で没しています。
なお、如安や右近の一族で日本に残っていた者の中で、大坂の陣でキリシタンの部隊を作り、大坂方として戦った者達もいたといわれます。
大村純忠
1563年受洗。洗礼名バルトロメオ。日本初のキリシタン大名といわれ、肥前の大村領では領民のほとんどがキリシタンとなり、天正10年(1582)には甥の千々石ミゲルなどの天正遣欧少年使節を派遣しています。
天正15年(1587)の秀吉の九州平定時には子の喜前(よしあき)を派遣して秀吉に従属し大村家の存続に成功しますが、同年病により死去しています。
子の大村喜前もキリシタン(洗礼名ドン・サンチョ)でしたが、後に棄教し領内も禁制として教会も全て破壊したそうです。
大村家は肥前大村藩主として明治まで続いています。
小西行長
幼少期に受洗。洗礼名アゴスチノ。豊臣政権下で頭角を現し肥後南半国20万石を治める敬虔なキリシタン大名でしたが、関ヶ原の戦いに敗れ刑死しています。
一条兼定
1576年受洗。洗礼名パウロ。摂家一条家の一族である土佐一条家最後の当主です。母は豊後の戦国大名大友義鑑の娘で、自身も大友宗麟の娘を妻にしています。
天正2年(1574)には土佐統一を目指し勢力を広げてきた長宗我部元親に敗れ、豊後の大友家に身を寄せ、同所で洗礼を受けキリシタンとなりました。
その後、再度土佐へ攻め入るなど失地回復を目指しますが、果たせないまま伊予(現愛媛県)の離島である戸島(とじま)に隠棲します。
しかし、兼定の存在に不安を感じた長宗我部元親が戸島に刺客を放ち、兼定は一命を取り留めるも重傷を負い、その後天正13年(1585)に同所で病死したといわれています(43歳)。
島では「一条様」「宮様」と呼ばれ島民から崇敬されていたそうです。
大友義鎮(宗麟)
1578年受洗。洗礼名フランシスコ。豊後の戦国大名で一時期北部九州6か国の守護を兼ねるほど勢力を誇りました。宗麟の印章はフランシスコから取った、「FRCO」のローマ字を組み合わせたものを使っています。
島津家や龍造寺家と九州の覇権を争った宗麟でしたが、次第に島津家の侵攻に押されて勢力を失っていき、なんとか秀吉に従属することで島津家に対抗しますが、秀吉の九州平定中の天正15年(1587)に病死します。
秀吉の九州平定後、宗麟の跡を継いだ息子の大友義統(吉統)が豊後一国を安堵され大友家の存続に成功したのですが、朝鮮出兵で失態をおかします。
明の大軍に囲まれ平壌城に籠城した小西行長から援軍を求められるも、義統は形勢不利として救出に向かわなかったとされたものです。話を聞いた秀吉は日本の恥辱と激怒して大友家は改易され、義統は佐竹家に預けられます。
ちなみに義統もキリシタン(洗礼名コンスタンチノ)でしたが、秀吉のバテレン追放令により棄教しています。
関ヶ原の戦いで義統は、旧領回復を目指して旧臣らを集めて豊後に進軍しますが、黒田如水らに敗れ、戦後は出羽の秋田家預かりとなり慶長10年(1605)に死去しています。
なお義統の嫡男義乗(妻は高橋紹運の娘)が常陸国などで3300石を与えられて徳川家に仕えていましたが、義乗の子義親(妻は今川氏真の孫)が子のないまま若死して無嗣断絶となります。
嫡流は断絶しますが、大友家は義統の娘の系統である大友義孝に1000石が与えられて、子孫は代々高家として存続しています。
次回も引き続き、キリシタン大名、武将について紹介します。
【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
駿南社)
新生堂)
岩波書店)
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