天正10年(1582)6月2日早朝、明智光秀は織田信長が滞在する京都本能寺を襲撃します。寝込みを襲われ信長は、包囲されて逃げられないことを悟ると、寺に火を放ち、自害して果てたといわれています。
光秀は自害した信長の遺体を探しますが、結局発見することはできませんでした。
信長の遺体は?
信長の遺体の行方について興味深い伝承があります。実は、京都の阿弥陀寺に遺骨が運ばれて埋葬されたということです。このことは、阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』に記されています。
ただし、当初の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は阿弥陀寺の火災で焼失しており、収蔵されているのは後の享保16年(1731)に老人の記憶を頼りに書き直された文書ですので、一次史料ではありません。
埋葬した人物は、織田家と親交が深かった清玉上人と伝えられています。
清玉上人とは
清玉上人とは阿弥陀寺を開いた人物です。伝承では、清玉上人の母親が産気づいて道端で倒れたところを、信長の兄信広が助けたといわれています。
しかし、母親は清玉上人を産んですぐに亡くなってしまったため、それを不憫に思った織田家によって清玉は育てられ、援助を受けて阿弥陀寺の住職になったということです。その縁で、信長をはじめとする織田家の人間に家族同然の扱いを受けていたとか・・・
どうやって持ち帰った?
『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によると、変が起きた時、大事を聞きつけた清玉上人は僧20名と共に本能寺に駆けつけます。しかし、本能寺は明智勢によって包囲されており、近づくのは困難な状況でした。
上人は裏にまわり境内に侵入しましたが、すでに火の手が上がり信長は自害した後でした。そして、信長の遺体を火葬しようとしている武士たちを見つけ、その武士から遺体を受け取ります。上人は遺体を荼毘に付して、遺骨を法衣に隠して持ち帰り阿弥陀寺に埋葬したということです。
また、二条御所で亡くなった信長の嫡男信忠についても、遺骨を上人が集めて信長の墓の傍に信忠の墓を作ったとされています。
清玉上人と秀吉
山崎の合戦で信長の仇を討った羽柴秀吉は、信長の墓が阿弥陀寺にあるということを知ります。そのため、阿弥陀寺で信長の法要を催したいと申し入れます。
しかし、上人は「すでに我々で葬式は済ませています」として秀吉の申し出を断ったのです。さらに秀吉からの三度にわたる法事領300石の寄進の申し入れも拒否したので、秀吉の逆鱗に触れることになります。
そして、秀吉は大徳寺総見院を織田氏の宗廟としてしまったので、阿弥陀寺は廃れていったといわれています。
阿弥陀寺と森家
清玉上人が亡くなると、秀吉は阿弥陀寺を現在地に移転させ、お寺の規模も縮小してしまいます。困窮した阿弥陀寺ですが、思わぬところから救いの手が差し伸べられました。それは、信長の小姓森蘭丸の実家であった森家です。
江戸時代になってから、森兄弟の末弟である森忠政が津山藩主となった後、毎年6月2日に法要を営んでいたようです。4代藩主長成は、百年忌を執り行ったそうですが、のちに森家が改易になったあとは、援助が途絶えたということです。
信長の墓の信憑性は?
『信長公阿弥陀寺由緒之記録』では、遺骨を法衣に隠して持ち帰ったとなっていますが、激戦の最中、はたして明智勢に見つからずに遺体を焼く時間があったのでしょうか?(最低1時間はかかるのでは・・・)
いろいろ疑問がありますが、具体的に清玉上人の行動が伝わっていることからも、上人が本能寺に行った可能性は高いと思います。
信長本人の遺骨(もしくは遺灰)を本能寺から持ち出せたかどうか、真偽のほどは定かではありませんが、他にも15か所以上存在する信長の墓の中では、最も信憑性が高いかと・・・
大正6年(1917)、信長に正一位の位階が追贈されることになり、宮内庁の調査で阿弥陀寺が「織田信長公本廟」と公認されています。
この宮内庁の調査の内容が気になりますね。
新着記事