今回は織田信長の怖いエピソードを紹介します・・・
僧侶皆殺し
父信秀が危篤におちいった際、信長は僧侶たちを呼んで病気治癒の加持祈祷をさせたのですが、数日後信秀は息を引き取りました。信長は祈祷した僧侶たちを監禁し、「今度は自分たちの命について祈るがよい」といって全員射殺してしまったといいます(;゚Д゚)
人夫を一刀斬首
永禄12年(1569)、信長は京都で自ら監督となり足利義昭のための御所を建設中、遠くで一人の人夫が通りかかった女性をからかっているのを見つけました。すると足早に人夫に近づき、首を一刀で/(;゚Д゚)
杉谷善住坊
元亀元年(1570)、信長は京都から岐阜へ帰る途中に突如2発の銃弾に襲われました。弾は命中せず命拾いしましたが、近江の六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者の仕業でした。3年後に捕らえられた善住坊は、地面から首だけ出した状態で穴に埋められ竹鋸で7日間かけて首を切られたといいます。((;゚Д゚))
比叡山焼き討ち
元亀2年(1571)、信長と対立していた比叡山延暦寺を包囲して火をかけながら四方から攻め立て、立て籠もっていた僧兵、僧侶、付近住民の老若男女を含めて数千人をことごとく虐殺しました(((;゚Д゚)))
朝倉・浅井の髑髏
天正元年(1573)、信長は宿敵朝倉義景、浅井久政・長政を滅ぼします。
久政の妻は10日かけて指を1本ずつ切り取られ殺され、わずか10歳の長政の長男万福丸は串刺しの刑で惨殺されます。
翌正月、岐阜城での宴の席で、信長は上機嫌で箔濃で装飾した3つの髑髏を出しました。義景、久政、長政のものでした((((;゚Д゚)))) ※器にして酒を飲んだというのは俗説です。
一向宗2万人焼き殺し
長年手を焼いていた一向宗ですが、天正2年(1574)に総攻撃を行い伊勢長島の各地の砦を落とし徹底的に皆殺しにしていきます。
兵糧攻めで弱りはてた砦から降伏の申し入れがあると意外にも信長は降伏を受け入れます。安堵した一向宗の男女が城から船で出てくると、突如信長は鉄砲で一斉射撃させ皆殺しにします。
残った砦には幾重もの包囲をして四方から火を放ち2万人の一向宗を焼き殺すと、信長は満足して帰途についたといわれています。(((((;゚Д゚)))))
叔母を逆さ磔
信長の叔母おつやの方は美濃岩村城の遠山氏に嫁いでいましたが、夫の死後、信長の子御坊丸を養子に迎え、実質的に女城主となっていました。
そこに武田方の秋山信友が攻めてきましたが、おつやの方が妻になるなら城兵の命を助けるとの条件をのみ、信友の妻となります。
天正3年(1575)長篠の戦いを経て、今度は織田方が岩村城に攻め寄せました。降伏すれば助命するとの申し出に開城しましたが、信長は約束を守らずおつやの方を信友ともども長良川の河原で逆さ磔(斬殺とも)で処刑してしまいました。
おつやの方は信長への恨み言を絶叫しながら果てたといいます((((((;゚Д゚))))))
荒木村重の人質処刑
荒木村重が謀反を起こした際には、まず有岡城に残された婦女子120余人を尼崎で磔にします。
その後、村重の家臣ら500余人を4軒の民家に押し込め、火をつけて焼き殺し、最後に村重や重臣の一族36人を、車に縛り付けて市中を引き廻した上、六条河原で首を刎ねています。
戦国の世で人質が処刑されることは多くありましたが、ここまで恐ろしい処刑はないと噂されたそうです(((((((;゚Д゚)))))))
竹生島事件
ある時、信長が安土から長浜の秀吉のところと、琵琶湖上の竹生島まで出かけました。かなりの距離なので秀吉のところに泊ってくるだろうと思い、侍女たちは勝手に城内の別の場所や付近の寺に遊びに行っていたところ、その日のうちに信長が帰ってきたのです。
信長は激怒し、「どうかお慈悲を」と侍女たちを庇った寺の長老までまとめて全員処刑してしまいました((((((((;゚Д゚))))))))
以上いくつかのエピソードを紹介しましたが、当時、裏切り者や罪人が残虐に殺されることはどこでもあったことであり、信長なりの戦略・人心統制術であったのではないでしょうか。それにしても・・・・・
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