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家康の伊賀越え

家康の伊賀越え

 本能寺の変が起きた時、家康は石川数正、酒井忠次本多忠勝榊原康政ら十数名のわずかな側近と共に堺を遊覧していました。変の報がもたらされても、兵を連れているわけでもなく当然戦うことはできないので、とにかく三河まで逃れるしかありませんでした。

 しかし、信長の同盟者で名も知られている家康は、明智勢や落ち武者狩りの農民たちからは格好の標的であり、無事に三河まで逃れるのは至難の業でした。

 徳川家の記録「東照宮御実紀」では、家康は一時、信長の後を追うと腹を切ろうとしたそうですが、本多忠勝らが「ここで腹を切るより領国に帰り兵を整えて光秀を討つべし」と説得したことで翻意しどうにか三河を目指すことになりました。

 この時家康と共にいた穴山梅雪(武田氏の一門で武田勝頼を裏切り家康に付いていた。「武田遺臣と家康」の項参照)は、家康と別れて別の道で帰国しようと進んでいたところを落ち武者狩りに遭って命を落としており、実際に家康も危険であったことがうかがえます。(東照宮御実紀では、光秀が家康を討とうと手配していた落ち武者狩りに家康と間違われて討たれたのだろうとしています)

 街道を進むのは危険なので、一行は伊賀の山を越えて行くことにしたのですが、忠勝が蜻蛉切を手に先頭に立ち、同行した茶屋四郎次郎(京都の豪商)が地元民に大金を与えて籠絡し道案内させたといわれます。

 途中途中で落ち武者狩りに遭いますが、忠勝らの活躍で追い払い、伊賀越えに差し掛かります。

 伊賀越えでは、伊賀者2~300人や甲賀の地侍約100人が護衛について難を逃れたとされます。信長の伊賀攻めにより多くの伊賀者が家康領内に逃れ徳川家に面倒を見てもらうようになっていた縁で馳せ参じたとされ、また、伊賀出身であった服部半蔵も活躍したともいわれています。

 伊賀者らの協力でとにもかくにも一行は伊勢に辿り着くことができ、そこから船に乗り、海路三河へ辿り着いてようやく胸をなでおろしたのでした。

服部半蔵の真実~伊賀者のその後
服部半蔵は、伊賀忍者の頭領として家康に仕えたと思われていますが、微妙に違います。その後の服部家、伊賀忍者、子孫の話まで含めて紹介します。

伊賀越えで家康を助けた人々

 伊賀者200人は伊賀同心として徳川家に仕官しています。また、服部半蔵は8000石を与えられ家康に重用されました。

 また、摂津国佃島の漁師から食料を分けてもらったため、江戸入府後にその者たちを現在の佃島に呼び寄せ、近海漁業権を与えたとのことです。

 なお、茶屋四郎次郎家も徳川幕府の御用商人として重く用いられています。


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