武田遺臣を家臣化した家康
天正10年(1582)、天目山の戦いで武田勝頼・信勝父子が自害し甲斐武田家は滅亡しましたが、徳川家康は少なくとも約800人の武田遺臣(武田旧臣)を家臣にしています。
信長は徹底的に有力な武田遺臣を誅していますが、家康は密かに、かつ積極的に取り込んだようです。
結果として、徳川家臣筆頭であった石川数正が出奔し徳川軍編成が秀吉に筒抜けになった際は、武田遺臣の力により武田流の軍編成に変更しており、また武田家だけでなく、今川家や北条家の旧家臣も加えることで精強な家臣団を作り上げ、天下取りの礎としています。
家康の家臣になった主な武田家臣
穴山梅雪
信玄の娘婿で勝頼の重臣でしたが、滅亡前に裏切り本領を安堵され、家康の与力的立場になっています。しかし、本能寺の変の際に家康と堺から落ち延びるところを落ち武者狩りに遭い命を落としています。
真田家
勝頼の重臣であった真田昌幸と次男の信繁(幸村)は家康と反目し、2度の上田合戦や大坂の陣で徳川家を苦しめますが、嫡男の信幸(信之)は本多忠勝の娘(小松姫)を妻にして家康に臣従し、子孫は信濃松代の藩主として幕末まで続いています。
土屋家
最後まで勝頼に従って「片手千人斬り」の名を残した死んだ土屋昌恒の遺児忠直が、家康の側室阿茶局(武田家臣の娘)に養育され、後に上総久留里藩2万石の大名となっています。孫の数直が老中となるなど、子孫は土浦藩9万5000石の藩主として幕末まで続き、維新後は子爵となっています。
江戸時代の土屋家に関する詳細はこちら(旗本武田家との関係も)
柳沢家
辺境武士団であった武川衆や津金衆が家臣化されていますが、柳沢家も武川衆の出であり、当時の当主柳沢信俊が家康に臣従します。
孫が有名な柳沢吉保で、甲府藩主を経て大和郡山藩主となり、子孫は幕末まで続き維新後は伯爵となっています。なお吉保は信玄の玄孫武田信興を庇護し、信興の子孫は高家武田家として幕末まで続いています。
米倉家
武川衆の代表的家で、当時の当主米倉忠継が折井次昌とともに武川衆を取りまとめ家康に臣従します。
当初は400石でしたが、代々加増を重ね、家光、家綱、綱吉に仕えた昌尹が元禄9年(1696)若年寄となり知行も1万石に達したことで武蔵金沢藩主となっています。昌尹の父政継(昌純)が柳沢吉保の従兄弟に当たります。
駒井家
信玄の重臣であった駒井高白斎の子で侍大将であった駒井政直が、遺臣団のまとめ役となって家康に証文を提出し、子孫は旗本として存続しています。
横田家
武田二十四将原虎胤の孫であった横田尹松が、長く家康の側に仕え大身の旗本となり、子孫は旗本最高の9500石を与えられ幕末まで続いています。
諏訪家
武田滅亡後、北条家の後に徳川家に仕え、関ヶ原の戦いの後に旧領である諏訪高島の藩主として返り咲いて幕末まで続き、維新後は子爵となっています。
保科家
当時の当主保科正直、正光が家康に臣従後活躍し、後に旧領である高遠藩の藩主となります。その後、穴山梅雪の妻(見性院:信玄の娘)に養育されていた2代将軍秀忠の隠し子が正光の養子となり正之と名乗り、後に会津松平家として幕末まで続いています。
大久保長安
卓越した行政手腕を持ち、甲斐や関東の家康直轄領の支配、金山・銀山の開発に活躍しました。莫大な財力・権力を手中にし諸大名とも縁戚関係を持ちますが、死後に不正蓄財の咎により息子たちは切腹させられ家は取り潰されています(大久保長安事件)。
なお長安は、多くの武田遺臣から「八王子同心」を組織しています。
ちなみに江戸時代を通じて八王子では年2回武田流槍法の調練を行っていて、大勢が一堂に槍先を揃えて並び、えいえいえいと掛け声をかけながら始めは緩やかに進み、次第に勢いをつけて敵に近づくと一斉に槍先を揃えて突進していくものだったそうです。(見物した勝海舟は「西洋の調練に似てすこぶる実用に叶ったものだ」と感想を残しています)
山県衆
山県昌景に属していた精強部隊の山県衆「赤備え」が井伊家に仕え、「井伊の赤備え」として名を馳せています。
三河譜代の臣と比べても重く用いられている者もおり、江戸時代を通じて活躍した家も多いようです。
こちらもどうぞ
ちょっとだけ馬場信春(信房)の子孫が出てきます・・・⇓
新着記事