鳥居彦右衛門元忠の生涯
鳥居(彦右衛門)元忠は、天文8年(1539)、鳥居忠吉の三男として三河国に生まれました。
忠吉は三河国の松平氏に仕えており、元忠も早くから竹千代(家康)の側近くに仕えていたそうです。長兄は戦死し、次兄は出家したため、父忠吉が死去すると元忠が家督を継ぎました。
元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀三年(1573)の三方ヶ原の戦い、天正三年(1575)の長篠の戦いなど徳川家の重要な戦で活躍しています。
そして元忠及びその後の鳥居家の運命が決まったともいうべき伏見城の戦いが起こります。
慶長5年(1600)、家康が会津征伐に出兵する際、元忠は伏見城留守居役を任されます。伏見城は大坂方の勢力圏内にあり、戦が始まれば包囲されることは確実でした。
運命を覚悟していたのでしょう、家康は会津に向かう際に伏見城に宿泊し、深夜まで元忠と酒を酌み交わしたと言われています。
開戦すると伏見城は直ちに西軍の大軍に囲まれ、元忠ら1800人の将兵は奮戦するも衆寡敵せず、元忠は自刃し雑賀衆出身の鈴木重朝に首を取られ、その他の将兵も皆玉砕します。
血天井
落城の際、元忠たち徳川方将兵の血で染まった伏見城の床は、慰霊のため京都養源院廊下の天井に使われていることが知られています。いわゆる「血天井」ですが、実は元々慰霊とは別の理由があったそうです。
そもそも養源院は、文禄3年(1594)に淀君が父浅井長政の慰霊のために建てた寺院でしたが、元和5年(1619)に焼失してしまいます。
既に大坂の陣で淀君は死んでいましたので、実妹であるお江の方(2代将軍秀忠の妻)が姉の遺志を継ぎ再建しようとしましたが、徳川の敵であった淀君が建立した寺院の再建には幕府内で反対の声があったそうです。
そのため、伏見城の戦いで死んだ徳川の将士を慰霊するとの目的で伏見城の遺構を使い、しかも幕府の公的事業ではなくお江の方の私的事業とすることにより、元和7年(1621)にようやく再建することができたそうです。
鳥居家のその後~元忠と鳥居家臣の子孫
元忠の死後は嫡男忠政が跡を継ぎ、関ヶ原の戦い後、父元忠の戦功により陸奥国磐城平10万石を与えられました。
さらに元和8年(1622)には最上氏が改易された後に出羽山形22万石に加増移封されます。これは親藩と外様大名以外では譜代大名筆頭の井伊家35万石の次に高く、元忠の功績が重要視されていたことがうかがえます。
その後、寛永13年(1636)に次代忠恒が跡継ぎを定めないまま死去してしまい無嗣改易となってしまいますが、元忠の旧功により忠恒の弟忠春に信濃国高遠3万2000石を与えられました。
さらに元禄2年(1689)にも再び改易となりましたが、この時も元忠の旧功のおかげで1万石に減らされながらも存続を許されています。最終的には下野国壬生3万石で幕末を迎えています。
なお、寛永13年に無嗣改易となった際には、浪人となった鳥居家の家臣たちは後任に山形に入った保科家(後の会津松平家)に大量に召し抱えられたそうです。
保科家は3万石からの大幅加増であったため家臣が不足していたためですが、家臣の子孫たちも、会津藩士として戊辰戦争で最後まで徳川家への忠義を果たしています。
元忠に従い伏見城の戦いで討死した鳥居家臣の子孫で、偶然にも同地であった鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士もいました。『会津戊辰戦史』では、
元忠の妻は・・・・・・
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