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元会津藩家老・山川浩中佐と西南戦争~熊本城一番乗りまでの道

山川大蔵とは?

 山川浩は、弘化2年(1845)に会津藩で家老を務めた山川重固の子として生まれました。山川家は、会津松平家に信州保科家時代から仕えた古参の家柄でした。

 父の死去により、16歳で家督を継いだ後は山川大蔵と名乗り、文久2年(1862)には、京都守護職となった藩主松平容保に従い上洛し、激動の京都の中で活動します。

 さらに、慶応2年(1866)には幕府の遣露使節団の一員としてヨーロッパを経由しロシアを訪問するなど、会津藩だけに留まらず活躍する人材として将来を期待されていました。

会津藩家老として籠城戦を戦う

 戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いでの敗戦後、会津に戻りますが、慶応4年(188)6月に会津藩兵を率いて大鳥圭介率いる旧幕府軍とともに日光付近で戦った「今市の戦い」で、板垣退助、谷干城らが率いる土佐藩兵を主力とした官軍に敗れてしまいます。

 その後、同年8月には、家老の一人として、会津に攻め込んでくる官軍を迎えます。このとき、山川隊を含めた会津藩各軍は国境守備のため各地に出陣していましたが、母成峠の戦いで勝利した官軍が一気に若松城下になだれ込みます。

 各隊はあわてて引き返し入城しようとするも、官軍に包囲されて、かつ城門を固く閉ざし連絡できない城に入るのは至難の業で、敵中突破を図り官軍に射撃されながら多数の死傷者を出しながら入城する隊も多い状況でした。

 山川は一計を案じ、太鼓や横笛を集めさせ、彼岸獅子の囃子を吹鳴させながら城に向かって行進します。城内からはすぐに味方と判別してもらい入城しやすくするためでしたが、得体のしれない集団に官軍も敢えて発砲しなかったため、一兵も損なわずに入城できたのです。

 入城後は軍事総督として会津軍の総指揮官を務めますが、やがて降伏に至ります。

斗南藩から陸軍へ

 その後、会津藩の転封先である斗南藩では権大参事として、窮乏する藩政にあたります。あまりに過酷な環境のため、政府からの救援米も出されていましたが、到底足りず、斗南から逃げ出すものが相次ぐ状況でしたが、山川は率先して粗食倹約に努めたそうです。

 廃藩置県後は青森県に一時出仕した山川でしたが、ある転機が訪れます。戊辰戦争で敵対し浩の能力を知る土佐出身の谷干城が山川を陸軍に誘ったのです。山川はその求めに応じて窮乏する斗南の旧会津藩士らと共に、明治6年(1873)に陸軍に入隊したのでした。

 その後、陸軍少佐として、谷が司令長官を務める熊本鎮台に配属された山川は、明治7年(1874)に起こった佐賀の乱に指揮官の一人として出陣、反乱軍に包囲された佐賀城での籠城戦では左手に重傷を負いましたが、応援の政府軍部隊により乱は鎮圧されています。その後、東京に戻った山川は陸軍中佐に昇進します。

西南戦争~熊本城救援一番乗り

 そして、明治10年(1877)西南戦争が起こります。

 2月に鹿児島を出発した薩軍は、熊本に北上、谷干城率いる熊本鎮台軍は、鎮台司令部が置かれていた熊本城に籠城しての戦いを選択します。

 このときの兵力については、薩軍が約1万4千、熊本鎮台側が約3千5百であったとされています。

 籠城軍の陣営は、

鎮台本営      146名
第13連隊    1904名
第14連隊左半大隊 331名
砲兵第6大隊    330名
予備砲兵第3大隊   98名
工兵第6小隊    106名
警視隊       600名
計       3515名
ほか県令や将校家族

でした。なお、籠城軍の警視隊6百人は緊急に東京から送り込まれたもので、会津出身の士族が特に多かったそうです。(明治十年熊本籠城回顧)

 以上のとおり、歴戦の薩摩士族が集まった薩軍に対し、籠城軍は将校や警視隊以外の多くは徴兵による庶民出身の兵士で、薩摩出身の将校たちを含め、様々な出自が集まる混成部隊でした。

 実質的に薩軍を率いていた桐野利秋は、以前熊本鎮台司令長官を務めていたため実情を知っており、薩軍側は簡単に熊本鎮台は落ちると楽観視していたようですが、谷率いる鎮台兵は熊本城に籠って頑強に抵抗します。

 熊本城の鎮台軍を攻めあぐんでいるうちに、本州から征討軍が九州に上陸してきて、薩軍は熊本城包囲軍を残したまま、熊本城北方の要衝「田原坂」などに陣を構え、政府軍を迎え撃つことになりました。

 なお、この「田原坂の戦い」では、頑強な陣地に籠った上白兵戦にめっぽう強い薩摩士族に官軍は悩まされていたため、旧士族による巡査隊からさらに精鋭100名を選抜して抜刀隊を結成して対抗します。この100名の多くは会津藩を中心とした東北諸藩出身者であったそうです。

 熊本の北方で政府軍と薩軍の激戦が繰り広げられる一方、薩軍の中に孤立していた熊本城では籠城戦が続いており、兵糧も欠乏していき、死傷者は8百名近くにまでなり、谷も前線視察中に銃撃され負傷するなど過酷な状況に陥っていきます。

 このような状況の中、政府軍は、3月19日に別動隊を軍艦で熊本城南方の八代(日奈久)に上陸させ、薩軍の背後を衝きます。この中には、別働第二旅団の右翼指揮官として山川の姿もありました。

 上陸した別動隊は、各地で薩軍と戦闘を繰り広げながら熊本城を目指して北上します。

 そして、熊本近くに迫った別動隊は、4月15日をもって各軍一斉に熊本城を目指すことになりましたが、各所で激戦が繰り広げられる中、突破の好機と見た山川は、部隊を率いて前方の手薄な薩軍を蹴散らしながら一気に熊本城下まで辿り着いたのです。4月14日午後のことでした。

 当初、籠城軍は敵味方か分からずに、山川隊に向かって射撃してきたため、停射合図のラッパを吹きならし味方だと知らせると、約50日に及び籠城していた鎮台兵は歓喜し、負傷兵も仲間に支えられながら城柵に登って手を振ったといわれています。

 城内は兵士たちの大歓声で地面が揺れるほどで、傷病兵も皆起き上がり、泣き出す者もあったそうです。(西南戦史・熊本籠城談)

 なお、山川は谷らへの挨拶だけにとどめて入城は部下の一部隊のみにし、当日夜は城下に留まり周囲の警戒に当たったそうです。

 城内の食料も少ないだろうからと部隊主力の入城は遠慮したそうですが、15日の一斉入城命令に配慮してわざと入城しなかったのかもしれませんね。

 この山川隊の突出については、籠城兵を歓喜させましたが、約していた一斉入城に反していたとして、上官の別働第二旅団長山田少将から譴責されています。

 なお、熊本城への向かう途中、山川は山田少将に伺いの使いを出すも、その使者が途中で戻って山川に「了解を得た」とごまかして報告したためそのまま突出したと記録しているものもあります。

 会津と佐賀で過酷な籠城戦を経験していた山川だったので、籠城兵の気持ちを汲み取り一日でも安心させてやりた気持ちが強かったのかも。

 その後は薩軍が撤退した人吉・宮崎方面での戦いでも活躍していますが、山川は西南戦争に際して、
「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ佩く太刀の 利(と)きか鈍きか」という歌を詠んでいます。

その他の会津藩士と西南戦争

 廃藩置県後に東京府の邏卒になった旧会津(斗南)藩士は約330名いたようですが、西南の役のため東北の士族4千名が邏卒隊として募集された際には、旧会津藩士200余名も応じたとされています。(斗南藩史)

 同じく会津藩家老であった佐川官兵衛は、他の旧会津藩士らとともに警視庁に出仕し、警視隊として大分方面から熊本に向かっていましたが、途中の阿蘇で薩軍と交戦し被弾、戦死しています。

 有名な新選組の斎藤一も、旧斗南藩士藤田五郎として警視庁に出仕し、警視隊の半隊長として西南戦争に出征していますね。

 結局警察部隊や陸軍として数百名の旧会津藩士が参戦し、うち約70名が戦死したそうです。

その後の山川と家族

 西南戦争後、山川は明治13年に陸軍大佐に昇進、その後陸軍内の要職を歴任しながら、高等師範学校長(現筑波大学)も務め、最終的には陸軍少将、貴族院議員、男爵にまでなります。

 貴族院議員時代は、先に軍人から政治家へ転身していた谷干城らと会派を組んで活動しています。

 なお、文才にも優れていた山川は、多くの歌を残すとともに、『京都守護職始末』を書きのこし、会津藩の名誉回復を図っています。

 山川は明治31年(1898)に52歳で亡くなっていますが、その死後、山川が詠んだ8百首の歌を集めた『さくら山集』が出版された際には、谷干城がその序文を書いており、その繋がりの深さが窺えます。

 なお、弟の山川健次郎は、戊辰戦争後に長州藩士奥平謙輔の庇護を受けて勉学に励み、アメリカ留学などを経て、後に東京帝国大学総長になっています。

 健次郎は、浩の死後、旧会津藩主松平子爵家の家令顧問も務めていましたが、松平家の財政が窮乏した際には、子爵となっていた谷干城に相談し、更に伊藤博文の助力を得、宮中から3萬円の下賜金を受けています。

 また、浩の死後、健次郎により『京都守護職始末』が出版される際に、孝明天皇から松平容保に下賜された御宸翰の存在が公になりましたが、明治政府の高官らはその存在に驚愕したそうです。

 さらに健次郎は、松平家の名誉回復となった秩父宮勢津子妃殿下(容保の孫)の婚姻に関しても尽力しています。

 また、妹の捨松は、津田梅子らとともにアメリカ留学し、後に陸軍軍人大山巌の妻になっています。(大山は会津攻めの際、薩摩藩の砲兵隊長を務めていました。)

【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
 西南戦史(川崎紫山著:博文館)
熊本城阯保存会)
熊本兵団戦史(熊本日日新聞社)
斗南会津会)
 男爵山川先生伝(花見朔巳編:故男爵山川先生記念会)

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