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会津藩士と長州藩士の意外な関係

 禁門の変から戊辰戦争の因縁のため、会津と長州は仲違いしたままといわれていますが、両藩士の意外な関係について紹介します。

山川健次郎と奥平謙輔

 山川健次郎は、会津藩家老山川大蔵(浩)の弟で、後に東京帝国大学(現東京大学)総長になった人物です。

 戊辰戦争では当初白虎隊に属するも、年少のため幼少隊に編属替えとなり敗戦を迎えています。

 健次郎の自叙伝によれば、落城後藩主容保父子は寺で謹慎、負傷者は仮病院に収容、城兵(健次郎含む)は猪苗代で謹慎となりました。

 その後、会津藩の立場を説明し官軍へ寛大な処分を求めるため、藩士秋月悌二郎が猪苗代を抜け出し旧知の長州軍幹部奥平謙輔の元を訪ねました。奥平のほか前原一誠や大村益次郎とも面会することができて、幾分処分が緩やかになったそうです。

 その際秋月は奥平に対し「会津の書生を2人世話していただけないか」と頼むと奥平は快諾したため、健次郎と小川亮という若者が猪苗代を抜け出し奥平の世話になることになったのです。秋月は前途の見えない会津藩の中で、優秀な若者に希望を託したかったのでしょう。

 奥平は2人の面倒を良く見て、奥平の赴任先である佐渡、新潟、東京で健次郎らは勉学に励みました。後に奥平は明治新政府と合わずに官職を辞して長州に帰ることになりましたが、健次郎らのことを知人に頼み長州に帰ってからも気にかけ何度も便りをよこしていたそうです。

 その後健次郎はアメリカに留学、帰国後東京帝国大学の前身開成学校の助教授になり、後に東京帝国大学総長となりましたが、自身の栄達について「その初めに奥平先生の特別な庇護を受けた結果であることはいうまでもない」と述べています。

 なお、奥平は前原一誠とともに萩の乱を起こし刑死していますが、死に際まで大変立派な人物であったということです。

 小川亮は陸軍に入って活躍し、後に工兵大佐にまでなりましたが、惜しくも49歳で亡くなったそうです。

白虎隊生き残り飯沼貞吉と楢崎頼三

 飯沼貞吉は、山川浩・健次郎兄弟の従兄弟で、飯盛山で集団自刃した白虎隊士中二番隊唯一の生き残りです。

 別の隊士の母親が息子を探し回っていたところ、集団自決している中でまだ息のある貞吉を発見し、介抱したため生きながらえたのです。

 その後経緯は不明ですが長州藩士楢崎頼三が長州に連れ帰り、勉学に努めさせたといわれます。

 頼三は、自暴自棄になりそうな貞吉に、長州、会津などの枠を超えて新しい日本のために働くよう諭し、貞吉はそれに応えて勉学に励んだそうです。

 その後貞吉は、工部省の電線技師となります。当時の最先端の技術者として日本各地や朝鮮半島での電線敷設に活躍し、近代日本の発展に大きく貢献したのです。

 特に日清戦争時における朝鮮半島での電線敷設活躍は新聞でも紹介されています。

 貞吉は飯盛山で死にきれなかった負い目からか昔のことはあまり語らなかったそうですが、昭和6年(1931)まで長生きして仙台で没しています。

 楢崎頼三に関する別エピソードはこちら

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