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関ヶ原の戦いで西軍を裏切った4将~その生涯と子孫はどうなった?

 慶長5年(1600)に起きた東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)が戦った関ヶ原の戦いは、東軍の勝利で半日で決着がつきました。

 関ヶ原本戦では小早川秀秋ら西軍から東軍に寝返った武将が、東軍の勝利に大きな影響を与えました。ここでは、小早川秀秋と共に寝返った4人の武将の生涯とその子孫について紹介します。

赤座直保(あかざなおやす)

 直保は、越前国の戦国大名朝倉義景の家臣・赤座直則(なおのり)の子として生まれました。生年はわかっていません。天正元年(1573)、織田信長により朝倉家が滅ぼされた後は、信長に降り本領を安堵されています。

 その後、越前国守護代となった桂田長俊(かつらだながとし)の配下になりますが、長俊が一向一揆勢に攻められ討ち死にした後は、新たに越前国を任された柴田勝家や前田利家ら府中三人衆の与力になります。この時から後の前田家と直保との関係が始まったと考えられます。

 しかし、天正10年(1582)の本能寺の変で、信長に同道していた父・直則が討ち死にします。これにより直保が赤座家の家督を相続し、羽柴秀吉に仕えて所領を安堵されます。

 秀吉の家臣となってからは、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原征伐に参陣しています。小田原征伐では、石田三成の下で忍城攻めに加わっており、その功績により従五位下備後守に任官し、越前国今庄2万石の大名になりました。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、600の兵を率いて西軍の大谷吉継隊に属し、松尾山の麓に陣を敷いていましたが、小早川秀秋が東軍に寝返ると、これに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷隊を壊滅に追い込みます。

 しかし、戦後は恩賞を与えられなかったどころか、所領を没収されてしまいます。やはり土壇場での裏切り者は信用されなかったのでしょうか。

 その後は京に移り住みますが、すぐに前田利長から家臣に召し抱えられ、加賀松任城代として7000石を与えられました。しかし、慶長11年(1606)、越中国大門川(だいもんがわ)の氾濫の検分中に落馬して溺死するという不運な最期を遂げています。

 直保の死後、子の孝治(たかはる)が遺領7000石と松任城代職を継ぎました。孝治はのちに幕府をはばかって、藩主・利常の命により永原(ながはら)と改姓し、本家は加賀藩の上級家臣である人持組(ひともちぐみ)として幕末まで存続しています。

 また、分家も加賀藩で数多くあり、分家の子孫の一人が幕末の天狗党の乱に関係した永原孝知(たかとも)です。孝知は、元治元年(1864)の天狗党の乱に際して、加賀藩勢約1000人を率いて越前国に出兵しました。そして京都に向かう途中の天狗党を越前国敦賀で無条件降伏させています。

 孝治は投降した天狗党員に対し、かなりの厚遇をもって接したといわれています。また、明治5年(1872)に永原(赤座)家の菩提寺である金沢の棟岳寺(とうがくじ)に天狗党の供養碑を建立しています。

小川祐忠(おがわすけただ)

 小川祐忠は、もともと北近江の浅井家に属していましたが、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田信長に敗れたのち、信長に降伏して人質を7人差し出して許され、所領を安堵されました。

 信長の家臣になってからは、近江衆の一員として各地の戦いに参加し、安土城の築城にも関わっています。また、祐忠は信長から茶会を開くことを許されており、茶人としても名が知られていました。

 天正10年(1582)、本能寺の変後は、近江国を制圧した明智光秀に属して山崎の戦いに出陣しましたが、早い段階で羽柴秀吉に降伏しています。

 清洲会議で北近江が柴田勝家の領地となった後は、勝家の養子・勝豊に家老として仕えますが、賤ヶ岳の戦い前に、勝豊が秀吉に寝返ったために、祐忠も秀吉に従うことになります。

 その後は、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、文禄の役に参陣して、文禄4年(1595)、それまでの功績により伊予国今治7万石の大名になりました。

 関ヶ原の戦いでは2100の兵を率いて西軍に属していましたが、小早川秀秋が東軍に寝返ると、これに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保らと共に東軍に寝返り、平塚為広を討ち取ります。さらに、佐和山城攻めでも活躍しましたが、戦後は恩賞を与えられなかったどころか、改易処分が言い渡されます。

 改易の理由は領内で悪政を敷いていた、祐忠と嫡子の祐滋が石田三成と昵懇だったためともいわれています。また、祐忠が戦国の習いとはいえ、場当たり的に次々と主君を裏切ってきた過去も関係しているかもしれません。家康としてもこいつは信用できないと考えたことでしょう。

 しかも東軍陣中では祐忠・祐滋親子が死罪になるという噂までが流れたといいます。この噂を受け、祐忠の義弟・一柳直盛が祐忠親子の助命嘆願を行った結果、死罪及び改易を免れて減封処分とされました。祐忠は京都に隠棲し、失意のうちに1年後亡くなっています。

 減封処分となった小川家は、翌慶長6年(1601)、次男の光氏が豊後国日田2万石の大名として存続することができました。しかし、それもつかの間、10年後に光氏が子供がいないまま病死したため、小川家は断絶となります。

 8代将軍徳川吉宗の時代に小石川養生所を開いた小川笙船(しょうせん)が祐忠の子孫と自称していましたが、本当かどうかはわかりません。笙船は山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』(あかひげしんりょうたん)の主人公「赤ひげ先生」のモデルとしても知られています。

朽木元綱(くつきもとつな)

 朽木家は、近江源氏佐々木氏の流れを汲む鎌倉時代から続く名家でした。鎌倉時代に近江国高島郡朽木荘の地頭に任命されて、室町時代は幕府奉公衆として足利将軍家に仕えています。

 朽木元綱は天文18年(1549)、朽木晴綱の子として生まれました。母は公卿の飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)の娘といわれています。

 元亀元年(1570)、越前朝倉攻めで妹婿の浅井長政から裏切られた織田信長は、金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)といわれる撤退戦を行います。そして、信長が越前敦賀から近江朽木を越えて(朽木越え)京都に撤退する手助けをしたのが元綱でした。

 その後、信長に仕えますが、朽木越えの功績はあまり評価されていなかったのか、織田家ではそこまで厚遇されていません。それどころか山城国久多荘(くたのしょう)の代官職をやめさせられています。

 本能寺の変後は、羽柴秀吉に仕えて朽木谷の本領を安堵されます。小田原征伐に従軍し、朝鮮出兵時には、肥前名護屋城に入っています。

 関ヶ原の戦い当時は、2万石の大名だったといわれており、約600の兵で大谷吉継に従っていましたが、小早川秀秋が東軍に寝返ると、これに呼応し、脇坂安治、赤座直保、小川祐忠らと共に東軍に寝返っています。

 しかし、元綱は事前に東軍に内通する意思を鮮明にしていなかったため、戦後に約9,600石に減封されます。元綱の死後は3人の子供に領地が分割され、長男の宣綱(のぶつな)の子孫が朽木宗家4,770石の大身旗本として明治維新を迎えています。

 また、末子の稙綱は江戸幕府3代将軍徳川家光に仕え、兄とは別に領地を与えられ大名となり、若年寄までのぼりつめています。この朽木家はその後、たびたび領地が変わりますが、最終的に丹波福知山3万2000石の大名として明治維新を迎えています。

脇坂安治(わきざかやすはる)

 はじめは浅井長政に仕えていましたが、浅井家滅亡後は織田家に属し、後に羽柴秀吉の家臣となります。その後、秀吉の中国攻めに従軍して功を重ねました。

 天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで加藤清正や福島正則らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、山城国に3000石を与えられました。

 小牧・長久手の戦いでは、伊賀上野城を攻略する手柄をたて、天正13年(1585)10月には淡路洲本3万石の大名になります。その後、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵などに参陣しています。

 関ヶ原の戦いでは、戦前に家康に味方する書状を送っていましたが、石田三成が挙兵したため、大坂にいた安治はやむなく西軍に付いたとされています。

 本戦では西軍の一員として、約1000の兵を率いて、東軍に内通の風聞があった小早川秀秋に備えて、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らと共に配置されていました。小早川隊が大谷吉継隊を攻撃すると、他の3将と共に東軍に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させました。

 戦後処理で朽木元綱と小川祐忠は減封、赤座直保は改易の処分を受けましたが、事前に家康に書状を送っていた脇坂家は処分を受けずに所領を安堵されたのです。安治は、元和元年(1615)に次男・安元に家督を譲って隠居します。その後、寛永3年(1626)に京都で亡くなりました。

 外様大名だった脇坂家は2代・安元が老中堀田正盛の子・安政(やすまさ)を養子に迎えたことで、譜代大名待遇となります。この安政の時に播磨龍野藩5万3000石に移封となり、龍野藩主として明治維新を迎えています。

 また、10代・安董(やすただ)と11代・安宅(やすおり)は江戸幕府の老中にまで出世しています。

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