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赤壁寺〜黒田官兵衛・長政による城井一族の粛正

赤壁寺とは

 赤壁寺とは、大分県中津市にある合元寺の通称です。合元寺は、天正15年(1587)、黒田官兵衛によって建立されました。寺の壁が赤く塗られていることでそういわれています。

 なぜ、壁を赤く塗っているかというと・・・そこには、城井鎮房という武将にまつわる悲惨な歴史的事件があったのです。

城井鎮房とは

 城井鎮房は天文5年(1536)、城井谷城主・城井(宇都宮)長房の子として生まれました。城井氏の本家は下野宇都宮氏で、傍流が豊前にきて、豊前宇都宮氏となります。

 豊前宇都宮氏は城井谷城(きいだにじょう)を拠点としたため、後に城井氏を名乗りました。

 鎮房は最初、貞房と名乗っており、周防の大内義隆に属していましたが、義隆が陶隆房の謀反で殺されると、豊後の大友義鎮(宗麟)に服属します。そして、正室に義鎮の妹を娶り、義鎮から一字をもらって、鎮房と名を改めました。

黒田家の豊前入国

 天正14年(1586)、豊臣秀吉による九州征伐で鎮房も秀吉に従うこととなりました。しかし、自身は病気を理由に出陣せず、息子の朝房に僅かな手勢を任せただけだったので、のちに秀吉の不信を招くことになります。

 天正15年(1587)、九州征伐で戦功を挙げた黒田官兵衛・長政は豊前国6郡を与えられます。官兵衛はすぐに秀吉の命により新しい所領の検地を行います。土着の豊前国人衆を土地から引き離して、俸禄を与えて黒田家の被官にしようと考えたのです。

 鎮房はというと、秀吉によって伊予国今治12万石への国替えを命じられましたが、400年もの間治めてきた城井谷を離れることを拒み、国替えに抵抗します。

 さらに、秀吉から鎮房が所持する藤原定家の『小倉色紙』の引渡しを命じられましたが、鎮房はそれを拒否します。

 このことで、秀吉の怒りを買った鎮房は、城井谷城を出て、同じ豊前国内の領主となった毛利勝信の元へ預りとなりました。

 そんな中の同年10月に、黒田家による検地に不満を持った豊前国人衆は、鎮房を中心として一揆を起こしたのです。

城井谷城の戦い

 鎮房は、10月2日、城井谷城を急襲してこれを奪回し、籠城します。これに対し、黒田長政は、2000人の兵を率いて反乱軍鎮圧のため、城井谷城に向かいました。

 長政は、まず、道中にあった広幡城を陥落させ、元城代の瓜田春永を道案内として、城井谷城に向かって進軍しました。ところが、この道中に城井方は伏兵を待ち伏せていたのです。

 黒田軍は、城井方のゲリラ戦に混乱し、先手の大野正重や毛利の客将・勝間田彦六左衛門ら、800余の戦死者を出す大惨敗を喫しました。

鎮房暗殺と合元寺の虐殺

 黒田・城井両軍の戦いはその後も続きましたが、周囲の国人衆が全て鎮圧され、勝ち目のなくなった鎮房は、12月下旬、本領安堵と13歳の娘鶴姫を人質とすることを条件として、ついに黒田家と和睦することを決断します。

 こうして、いったんは和睦した黒田・城井両家にみえましたが・・・この後悲劇が起こります。

 官兵衛は肥後国人一揆を鎮圧するために肥後に向かいますが、留守を守る長政にある策を授けていたのです。

 天正16年(1588)4月20日、長政は、酒宴に招くとの口実で鎮房を中津城に呼び出します。そして、鎮房は家臣を連れて中津城に赴きましたが、なぜか城井家臣団は中津城下の合元寺に待機させられ、鎮房はわずかな供のみを連れて中津城に入ります。

 その後、中津城にて酒宴が始まったのですが、その宴席で、長政の命に従った黒田家家臣により鎮房は誅殺されます(享年53歳)。

 さらに、40名余りの城井家臣団が待機していた合元寺にも黒田勢が迫ったのです。

 合元寺では壮絶な切り合いが繰り広げられ、かなり凄惨な光景となったといわれています。寺の壁一面が鎮房の家臣達の鮮血で赤く染まったのです。その後、寺がいくら壁を塗り替えても白壁から血が滲み出てくるので、結局赤壁にしたということです。

 現在も境内の大黒柱に刀傷が残っており、当時の激戦の様子がわかります。また、戦死した鎮房の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀りたてられています。

城井一族の粛正

 この時、黒田官兵衛は、肥後国人一揆鎮圧のために肥後国にいたのですが、鎮房暗殺と同時期に、同じく肥後国の一揆鎮圧戦に参加していた鎮房の嫡男・朝房を暗殺します。

 その後、黒田長政は、城井谷城に攻め込み、鎮房の父・長房とその家臣団を皆殺しにします。その上、長政は人質となっていた鎮房の娘である鶴姫を13人の侍女と共に磔にして殺害します。

 こうして、大名家としての城井氏は滅亡しました。

鎮房の亡霊

 鎮房の死後、中津城に鎮房の亡霊が出没したといわれています。

 長政の玄孫にあたる福岡藩第6代藩主 黒田継高は、晩年に晩年に長男と三男を相次いで亡くし、更に長男の1男2女も夭折したため、官兵衛、長政以来の黒田本家の血統は断絶しました。

 また、その後も福岡藩の藩主は、代々跡継ぎが早死にしたため、城井一族の祟りだと噂されました。

 官兵衛は鎮房を謀略で殺害したことを後悔し、中津城内に社を創りその霊を祀っています。また、その後黒田家が福岡藩に転封されたあとは、福岡城にも創建されています。

城井氏のその後

 長男・朝房の死後、懐妊していた妻・竜子は難を逃れて男子を出産します。この男子は竜子の父・秋月種実に引き取られ宇都宮姓に復して、宇都宮朝末と名乗ります。

 城井氏再興のため、朝末は運動しますが早世してしまいます。その子・春房も父の再興運動を引き継ぎ、朝末の孫の信隆の代でようやく越前松平家に召し抱えられることになりました。時は元禄3年(1690)、、事件からすでに100年以上経っていました。

 その後、子孫は越前松平家の家臣として650石を知行し、血脈を保って明治維新を迎えています。

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