服部半蔵とは?
服部半蔵正成(服部家は代々「半蔵」を称していますが、ここでは一般的に半蔵として有名な正成を半蔵とします)は、伊賀忍者の頭領として家康に仕えたと思われていますが、微妙に違います。
半蔵は天文11年(1542)に伊賀で生まれていますが、そもそも伊賀の忍者であったのは半蔵の父保長であり、保長が伊賀を出て最終的に三河松平家に仕えたため、半蔵も家康に仕えていたのです。(伊賀忍者は狭い伊賀の中で食べていくのは困難であり、傭兵や間者として他国に仕官したり出稼ぎをする者が多かったようです)
半蔵自身の忍術がどの程度だったのかは分かりませんが、優れていたのは槍術でした。同じ名の渡辺半蔵守綱とともに槍の名手として各地の戦いで活躍しました。
半蔵の名を更に高めたのが「伊賀越え」です。本能寺の変の際には家康と共に堺におり、伊賀出身である半蔵が伊賀者を集めて道案内と護衛をさせるなど活躍し、家康を無事に三河に帰したといわれます。
服部半蔵と伊賀者の関係
この時の活躍により伊賀者200名が伊賀同心として家康に仕官することとなりましたが、半蔵の配下に付けられ、半蔵自身も8000石を与えられます。
江戸城の半蔵門は、半蔵と伊賀者たちが警護を担当したことから名前が付いたともいわれています。
なお、この200名の伊賀同心達は半蔵の下に付くことが不満だったようです。そもそも半蔵の父保長も伊賀の頭領などではなく他国への仕官で伊賀を出てしまった者であり、伊賀者にとっては同輩以下です。
伊賀越えで折角協力してやったのに半蔵の配下として扱われるのは納得できないとの気持ちがくすぶっていたようで、半蔵の死後、子の正就が跡を継いだときに爆発します。
正就が伊賀同心に屋敷修理の手伝いを命じたことで、伊賀同心達は「自分たちは徳川家に仕えているのであって服部家の家来ではない」と集団で訴えを起こして揉め事となり、結果として服部家は改易されてしまいます。
伊賀者と服部家のその後
改易された正就は、妻の父である松平定勝(家康の異父弟)に預けられ、後に大阪の陣で討死し、子孫は代々松平家に仕えており、正就の弟正重も大久保長安の娘を妻にしていた関係で事件の混乱時に改易され、後に定勝の子定綱に仕えています。
伊賀同心達はその後も代々江戸城の警備を務めていますが、諜報活動を行ったとされる将軍の「御庭番」は別系統の者たちです。
江戸時代の伊賀同心達に目立った活躍はなく、大奥の女性達が雪合戦をしたときに陣地の間の境として伊賀同心達が立たされたともいいます(´Д⊂ヽ
伊賀者も詰めた江戸城百人番所
新着記事