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徳川家治と倫子(ともこ)〜史実の夫婦仲はどうだった?側室はいたの?

 徳川家治は、江戸幕府第10代将軍となった人物で、あの有名な8代将軍吉宗の孫です。そして、倫子は家治の正室です。フジテレビ系のドラマ「大奥」では、家治を亀梨和也さん、倫子を小芝風花さんが演じています。

 今回の記事では、史実での二人の関係、また他の側室についても紹介します。

倫子の実家

 倫子は閑院宮直仁親王(中御門天皇の弟)の王女で、五十宮倫子女王といいましたが、ここでは倫子で統一します。

 直仁親王の父は東山天皇なので、倫子は天皇の孫ということになります。

 ドラマ「大奥」では、「公家の姫」という設定でしたが、れっきとした「皇族」です。

 徳川歴代将軍で正室が皇族(宮家)出身だった人物は、4代家綱、7代家継(家継が早世したので婚約のみ)、8代吉宗、9代家重、10代家治、12代家慶、14代家茂の7人になります。

 このうち、7代家継(婚約のみ)と14代家茂の正室が天皇の娘である皇女だったのは例外として、倫子の実家である閑院宮家は天皇家からかなり近い家でした。

 ちなみに、3代家光、5代綱吉、6代家宣、11代家斉、13代家定、15代慶喜の正室は、大河ドラマ「光る君へ」の重要人物・藤原道長の子孫である摂関家出身です。

二人の縁組

 家治と倫子の縁組が決定したのは、寛延元年(1748)のことでした。翌2年(1749)2月5日に京都を出発し、3月19日に江戸に到着、浜御殿に入りました。

 当時の年齢は、家治が12才、倫子が11才で、互いに行き来があり二人とも仲良く遊んで過ごしていたといわれています。宝暦3年(1753)11月11日には縁組の披露が行われます。

 そして、翌4年(1754)12月、倫子は江戸城西の丸に入り、二人は婚礼の式を挙げたのです。家治が18才、倫子が17才の時でした。

二人の結婚生活

 家治と倫子の間に長女の千代姫が産まれたのは、宝暦6年(1756)、婚礼の式から2年後のことでした。このことは、実は異例中の異例だったのです。

 なぜなら、将軍家では、正室が子を産むこと自体が稀で、正室から産まれた将軍は、家康・家光・慶喜の3人だけでした。しかも、初代・家康と15代・慶喜の父は将軍ではなかったので、将軍の正室から生まれたのは家光一人ということになります。

 また、家治は倫子に会う為に頻繁に西の丸大奥を訪れていたといわれています。

 しかし、倫子付きの御年寄たちが嫌がったので、家治付きの女中たちと、倫子付きの女中たちとの仲が悪くなったとか・・・

 この事実からもわかるように、家治と倫子の夫婦関係は仲睦まじいものだったといわれています。

 ところが、千代姫は宝暦7年(1757)に亡くなってしまいます。その3年後の宝暦10年(1760)、父・家重の隠居により家治が将軍職を継承します。

 そして、正室の倫子も江戸城本丸に移り御台所となります。翌11年(1761)、倫子は次女の万寿姫を出産しました。

 しかし、男児には恵まれなかったため、いやいやながらも家治は将軍家の血筋を残すため、側室を持つことになります。そして、その側室であるお知保が生んだ世子・徳川家基の養母に倫子がなったのです。

その後の二人

 その後も変わることなく、家治は倫子に愛情を注いで、仲睦まじく過ごしていたといわれています。二人が幼い頃から一緒に過ごしてきたことも関係していたのかも知れません。

 また、側室が産んだ家基を倫子のもとで養育させたことや、側室2人がそれぞれ男児を産んだ後は、側室のもとへ通わなくなったことなどからも、家治が倫子に相当気をかけていたことがわかります。

 2人の側室はかわいそうですが・・・

 将軍御台所は、大奥から出ることなく「籠の中の鳥」状態ですが、倫子は上野寛永寺や芝増上寺に直接参詣しています。大奥年寄が「息抜き」に代理で行くのが通例でしたが、家治の倫子への配慮でしょう。

 倫子は、明和8年(1771)8月20日、34歳の若さで病により亡くなり、江戸上野の寛永寺に葬られました。

 死後3日後に従二位を、さらに天明3年(1783)8月には従一位を追贈されました。

 子供は早くに亡くなりましたが、家治から愛された人生は幸せだったのではないでしょうか。

 次に家治の側室を紹介します。

側室・お知保

 お知保は、元文2年(1737)、書院番士などを務めた旗本の津田内記宇右衛門信成の娘として生まれ、のちに関東郡代・伊奈忠宥の養女となりました。年齢は家治と同じです。

 寛延2年(1749)11月より家重の御次、御中臈を務めていましたが、家重の死後、宝暦11年(1761)8月から江戸城本丸大奥に入り、家治付きの御中臈、その後側室となりました。

 これは、後継ぎがなかなか出来ないことを心配した家治の乳母・松島局と田沼意次が推挙したからだといわれています。

 この時、愛妻家だった家治は田沼から側室を持つことを勧められても拒み、将軍家の将来のためにと必死でお願いする田沼に「お前が側室を持つのならば、私も持とう」と言ったとか・・・

 このような経緯でお知保は家治の側室になったのです。

 お知保は、家治の嫡男・家基を産み、御年寄に上がりますが、家基はすぐに正室である倫子の養育となり、手元から離れてしまいます。

 家基と一緒に過ごせるようになったのは、倫子の死後のこととも・・・
しかし、幸せは長く続きませんでした・・・

 家基が安永8年(1779)に、18歳という若さで亡くなったのです。

 家基はまだ結婚もしておらず、ここに家重系統の血は途絶えることとなりました。

 家治の死後は落飾して「蓮光院」と称し、江戸城二の丸へと居を移しました。そして寛政3年(1791)に55歳で亡くなります。

 11代将軍家斉の時代、文政11年(1828)に従三位を追贈されました。このことは、御台所および将軍生母以外の大奥の女性が叙位された珍しい例でした。

側室・お品

 お品は、公家の藤井兼矩の娘として生まれました。藤井家は神祇官に任じられていた卜部氏の流れを汲む公家で、兼矩は従二位非参議になっています。

 お品は、家治の正室・倫子が輿入れのために江戸へ下向した際に、倫子の侍女となって、共に江戸入りします。

 その後、倫子付きの御中臈(御年寄とも)を務めていましたが、将軍家治の乳母で筆頭上﨟御年寄であった松島局の推薦により、松島局の養女となった後、家治の側室となりました。

 宝暦12年(1762)に側室・お知保が長男・家基を出産すると、お品も同年12月19日に次男・貞次郎を出産しましたが、貞次郎は翌年に生後3か月で亡くなってしまいます。

 後継ぎが出来たのちは、家治がお品のもとに通うことはなかったようです。

 安永7年(1778)10月27日、家治に先立って亡くなりました。墓所は上野の凌雲院にあります。

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